江戸時代の前期に、作仏行脚をしながら太田山・有珠山・恵山の三霊山を巡って「地神供養」をした僧円空は、今からちょうど345年前に蝦夷地へ渡ってきた。
その頃の蝦夷地(北海道)は、松前を中心に今の函館が東の境、熊石が西の境という、現在でいう道南地域だけが和人地という藩の領土で、それ以外の蝦夷地はアイヌが住む土地であった。 藩主松前候は、初代慶広のあとの五代目の矩広が7歳で藩主に就いていた。 先代の4代高広が27歳で急逝したためで、筆頭家老の蠣崎広林(ひろしげ)が実際の藩の運営をしていたと思われる。
当時の世の中も今と同じ様に不穏な情勢にあった。 3年前の寛文3年(1663)には、宇須岳(有珠山)の大爆発が起こり、頻繁の余震と降灰が続き、作物への影響は甚大で、飢饉の原因にもなっていった。 寛文5年には、上ノ国の天の川が氾濫し多大な被害となった。 彗星も見られ、民衆の不安は増す一方であった。 また、アイヌとの交易にも和人の身勝手さが見られ始めて、両者間の関係も暗雲が立ち込め始めていた。
そうした松前藩にとっても、民衆にとっても厳しい世の中になりつつある時期に、ある僧が上ノ国の滝沢の滝で修業しながら大きな仏像を彫ったと家老広林の耳に入った。 5尺程(145Cm)の大きさの十一面観音立像で、稲荷社に安置されていたものを見て驚いただろう。 「祓い」の神(仏像)という意味を知って、家老広林は3つのことを僧に頼んだ。
和人地のおもだった土地に「観音堂」を建てるので御神体を彫って欲しいと、有珠善光寺を再興して欲しいと、そして幼年君主矩広候のために仏像を彫って欲しいとお願いした。 勿論、和人地以外の蝦夷地の霊山を旅するための許可(証)を与えることも忘れなかった。
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