2011年8月30日火曜日

救命胴衣と父の想いで

この度の「川下り」の事故は、とっても悲しい結末となってしまいました。 救命胴衣さへ着けていれば・・・という思いは、家族はもちろん関係者みなさんが思ったことだろう。


普段していることを、その通りに守ることの難しさは、慣れていればいるほど、簡単だ・安心だと思った瞬間から不測の事態が発生していると言ってもいいのかも知れません。  ルーチンワークをきちっと守ったことで一命を取り留めた事例を、わたしは“父”から、たった一度だけ聞いたことがあった。 遠い遠い昔の自らの出来事として・・・


それは敗戦が濃厚となった昭和20年の春まだ遅い襟裳岬沖での出来事だった。 北方に配備されていた兵士を本土の南方面へ移動させるために多くの兵隊さんを載せた輸送船が襟裳沖を航行中にアメリカの潜水艦に撃沈されてしまったのだ。 


戦争がだんだん厳しくなってくると物資や人手が足りなくなり、何かしらできる人なら誰でも戦争に駆り出された時期があったらしい。 父はそれまで、戦争が始まってからも、しばらくの間は地元福島で漁船の機関士をしていた。 が、ある日、乗っていた漁船ごと軍に召集されてしまった。 何隊に所属したのか聞かなかったが、輸送船として道内の近海を行き来していたそうだが、まもなく日本近海へもアメリカの潜水艦が頻繁に出没するようになってきた。


そして問題の事件の起きた襟裳岬を航行する日となった。 夜まだ暗い時間帯で、潜水艦の攻撃も予想されるので「救命胴衣着用」の指示が船内放送で流れたそうです。 釧路方面から航行している輸送船は、暗がりの中でも襟裳岬の山影は確認できたらしい。 もうすぐ海岸線が真近の処を走っているので、おおかたの乗船員は安心しきっていたらしく、着用しない兵士の方が多かった。 


父は元来、石橋を叩いて渡るほど慎重な性格の持ち主だったようで、着用の命令は守らねばならないと頑固に考えて、わざわざ救命胴衣のある船底まで降りていって着用した。 その時、本当は周りの戦友たちにからかわれたらしい。


突然、ゴゴッゴーという衝撃音と共に船が揺れ、傾きかけたのがアッという間の出来事だったらしい。 気がつけば、海の中にいる自分に驚いた。 春が近いと言っても、海水温は氷点下だった。 運よく四角い座れるほどの板も手に入れたので、その上に正座をし、波の揺れに身をまかすことができた。 気が遠くなるほど正座をしていたような気がして、両足とも海水に晒されてすっかり体温を低下させてしまっていた。 自分ひとりではどうすることもできない状況だった。


そのうちに辺りが明るくなり始めて、気温も少しは高くなり、周りの光景を見ることができるようになって、はじめて悲惨な事態に陥っていたことを理解できたそうだ。 「助かった」と実感したのは、それからもっともっと後になってからだった。 もちろん仲のよかった何人もの戦友たちは海の中に沈んでいってしまっていたが・・・。  冬が来ると、足が冷たくてと話していた父の記憶があります。 


その後、吉村昭の作品に興味を持って、読み始めた頃があった。 日本初の種痘を行った中川五郎冶を書いた「北点の星」をはじめ、医学関係の小説が多数あるので手当たり次第に読んだ記憶がある。 その中に、何気なしに「海の柩」という小説を読んだ時、ピンときた。 これだ!と。 この事件が、父が話してくれた船の沈没事件だと思った。 そのなかから少し抜粋してみると・・・


「太平洋戦争末期、北海道の漁村に、ある日たくさんの日本兵の水死体が流れ着いた。 
数は500体近く。どうやら兵士を満載した輸送船がアメリカの潜水艦に攻撃され、沖合い 
で沈没したらしい。死体の中に将校のものは無かった。将校たちは救命艇で脱出できたらしい。 

死体を収容していた漁師たちは、奇妙なことに気づいた。腕のない死体がかなり混じっているのだ。手首の欠けているものもあれば、上膊部から失われているものもある。海水に洗われて血はにじみ出ていなかったが、鋭利なもので断ち切られたように断面は平らだった。 

中には片腕がない上に、顔面に深々と裂傷の刻まれているものもある。船から海中に飛びこんだ 
折に出来た傷かとも思えたが、死体の半ば以上が腕を切り落とされていることは異様だった。 」



この話は、「大成丸事件」といって、道内の厚賀町で実際に起きた事件で、吉村昭は丹念に取材をして重厚な小作品に仕上げました。 船は陸軍の輸送船で、部隊は「轟」と言ったそうです。 終戦末期に起きた悲惨な出来ごとでした。 


当初、かん口令が引かれ、みんな口を閉ざしたまんまだった。 悲劇を後世に伝えることも大切なことで、その時救出出来ずに溺れて亡くなった方達は数日後、海岸に打ち上げられ、手足が無い遺体が多数あり、隠しきれなくなってしまったようです。 


わたし達の身を守るべき安全グッツが時として煩わしく感じることがあり、それをしなかったために後で大きなペナルティーを支払わされることになることがありますが、父の場合や今回の川下りの場合など本当に辛い結末でした ネ

2011年8月28日日曜日

黄色と白色

今日は、町内の「ゴルフ愛好会」の月例で、大沼国際カントリークラブへ行って来た。 昨夜、医師会の会議の後、懇親会があり少し帰宅が遅かったこともあって、朝の身体の調子はだるかった。 ウォーミングアップをしてからは、いつもの調子に戻ってきたものの、ちょっと・・・でした。


帰りは、いつも途中で眠気が襲ってきて、少しの休憩をとらないと運転が危ない。 そこで、二か所の休憩場所をとることにして、はじめは“黄色の畑”をショットしてみた。 向日葵です。 一面の黄色い畑は夏の残暑をギラギラさせていました。




二か所目は、“白い色の畑”です。 蕎麦の花が満開で、一面の白い畑に圧倒されます 夕方だったため、山の端が青白く見えるのもコントラストの妙です。 秋の収穫後の手打ちそばが待ち遠しいです ネ

2011年8月13日土曜日

8月の13日 

26年前を想い出す。 

その年の6月にロスから帰国しました。 3年ぶりの日本は、随分変わっているかと考えていたが、驚くほどでもなかったと記憶している。 ロス在住の時に一番日本を恋しいと感じていたことは、「畳」の感触にあこがれていたことでした。 やっと日本だな~と思ったのは、和室の畳の上でごろ寝をした時だった。

臨床を診ることから相当離れていたため、大学の当時の内科教授(谷内)にお願いして臨床研修させていただきました。 外科や小児科などの複数科のある病院ということで、芦別市立病院を選んでくださいました。 北海道の中心に位置し、富良野市がとなりにある街と言えばわかり易いでしょうか。 「北の国から」の放映で、人気急上昇の地域でした。

一度挨拶に伺って、赴任は「8月13日」と決めました。 丁度お盆の時期で、お盆休みを取る職員もいるなかで、一日でも早く実地臨床を始めたいと考えたからです。 とっても暑い日だったと記憶している。

仕事が終わってから、医局の先生方が歓迎会をしてくれることになり、市内の鮨屋さんに出かけました。 二次会は、同じ建物の同じ経営者のカラオケスナックで行われ、8時を少し回っていた時刻だったと思います。 一曲目がオーダーされる前だったから、通常のテレビ放送(NHK)が流れていた。 

突然画面が変わって、臨時ニュースに切り替わった。 羽田を飛び立った飛行機が行方不明とのアナウンサーの説明だったので、後に起きた大惨事(御巣鷹山の飛行機墜落事故)のような事まで想像することもできなかった。

それがわたしの芦別での5年間のスタートの一日目でした ヨ

2011年8月12日金曜日

永田文庫

今日は朝から何となくソワソワしていたかも知れない。 たぶん職員の誰かは気付いて居ただろう。

現在札幌に住んでおられる、「福島町史研究会」の顧問の永田富智先生が当町へ立ち寄られ、会員との懇談の場を設けて頂けるということになっていたからです。 と同時に、長年集められた膨大で貴重な資料を含む先生の蔵書が当研究会へ寄贈されたため、それを記念しての集まりでもありました。 「永田文庫」と名付けられ、福祉センターの一室で閲覧できることになりました。

一昨年、松前町で会ってから久しぶりという会員もおり、本当に懐かしいひと時を持つことができました。 ここ数年は、かなり重い病に悩まされ、たいへんな闘病生活を送られただけに、きょうの再会はとても嬉しいことでした。 話す力も、しっかりされ、話す内容も、福島の士族について調べ、以前福島大神宮の土砂崩れの時に出土したさまざまな文書類を研究し、ここ福島村で晩年を過ごした松前広長「福山秘府」の作者)の別荘(清音館)のことなどを調べ上げるようにというもので、今後の当会の研究の道しるべを語ってくれたように思いました。

永田文庫は、閲覧は可能だが、貸し出しなどについては、図書室との兼ね合いもあり、今後のこととなります。 教育委員会が蔵書の保管場所を福祉センター内に確保してくれたため、町民のどなたでも利用できるということで、非常によかったと感謝しています。

さて、懇談会の後、永田先生と娘さんの谷口宏子夫妻も同席して、喉を潤すためスナックへ会場を移したところ、永田先生が軍歌を数曲唄ってくれました。 今までの病状を思えば、何と言う健康回復なんでしょう。 みんなビックリし、拍手喝さいで夜は更けていきました。 

今年87歳です。 米寿のお祝いの事を考えましょう ネ


2011年8月10日水曜日

雨傘

今日の雨は、最近本州方面で多くみられるようになり、局所的に突然大量な降りかたになるため被害も甚大となることがある「ゲリラ豪雨」によく似ていた。  毎週水曜日は午後から往診する日なので、わたしも今日その被害に遭ってしまった。

午前中は、晴れていたため、午後2時「オガクリ」を出発する時は、ついうっかりして傘を車に用意することを忘れていました。 最初の2軒目までは何の雨模様でもなかったものが、その後急に空が曇り始めたと思ったら、アッというまに“ザーザー”と激しい勢いで降りだしてしまった。

傘の用意をしていなかった不注意のため、3軒目の公営住宅の2階から出るに出れない状況になってしまっていた。 「老夫婦の往診先から傘を借りることはできるだろうか?」と思案しながら階段を降りてくると、1階の部屋の住人も当クリニックの患者さんでした。 一人住まいのご婦人でしたから、ひょっとして貸し出せる余裕のある傘があるだろうと思い、話してみると何本か見せてくれた中から最も大きな傘を「どうぞ~」と貸してくれました。

移動する地域によって雨の降り方が違うので、どしゃぶりのところではその傘を使えたので、大助かりでした。 本当に有難うございました。 


ただ、雨傘」と言えば、わたしにはとても胸が痛むつらい想い出があります。 小学6年の夏の頃だったと記憶している・・・。

当時、とっても仲の良い同級生(N.S君)がいました。 彼はクラス、いや学年でもトップクラスの成績で、スポーツもできる文武両道で、みんなの憧れの生徒でもありました。
のんびりしている田舎の子供でも“学ぶ”ことの大切さを、すこしは判っていたから、なんとか彼に勉強を教えてもらおうと、わたしは彼の家へ何度か行ったことがありました。 

彼は、優しい心の持ち主で、一緒に勉強することに賛成してくれました。 彼の親も子供の勉学の環境を考えて、彼専用の勉強部屋を増改築するほど教育熱心でした。 田舎では、勉強部屋の個室を造って貰うなんて、ごく限られた大家しか聞いたことがなく、大変珍しいことでした。 中二階への階段を登っていくと、彼の個室です。 とても羨ましいやらで、彼がとっても輝いて見えたものです。

朝早く起きて勉強しようと約束もしたが、甘かった僕は寝坊ばかりで、いつも彼が呼びに迎えに来てくれました。 本当に心優しい、良く勉強のできる優等生でした。 貧しい僕にも、とっても良くしてくれました。 感謝しても感謝仕切れません。 

そんなある日の午後、学校帰りに突然雨が降ってきました。 彼のおばあちゃんが、「これをさして帰りなさい」と言って、一本の雨傘を貸してくれました。 大きな大きな傘だと、その時は思いました。 雨は、やはりゲリラ豪雨みたいに、まもなくやんでしまいました。 そうなると、その大きな傘は、子供にとっては邪魔になるだけです。 棒を振り回すように振っていると、取っ手のほうを、何かにぶつけてしまいました。 取っ手は簡単に“ポキン”と折れてしまいました。 それをつなげようとしても後の祭りです。

笑顔のやさしいおばあさんに会わす顔がなくなり、そのうちに少しずつ彼の所にも勉強しに行きづらくなってしまいました。 何とかその穴埋めをしよう、就職して給料を得たら真っ先に傘を買っておばあさんのところに行こう・・・などと思っていたが、その望いも叶わぬまま、おがあさんは亡くなってしまいました。

後悔する気持ちだけで、言葉・行動に表せなかったまま日々が過ぎてゆき、その後とっても仲のよい彼とも交流が無くなってしまいました。 というのも、彼の家族は、彼が中学へ進学するのを機に、将来の勉学のために函館へ転居してしまいました。 当時の函館は、福島から見れば、勉学の環境が整った大都会でしたから・・・。

今なら彼にその時の「事件」を語り、それに対する対応の拙さを素直に詫び、疎遠になった事を謝ることができると思うし、そうしなければならないと思います。 

小学6年の頃のとても「辛い想い出」でした ネ

2011年8月8日月曜日

あとの祭り

生きの良い朝イカ
刺身が旨い
私の大学の大先輩渡辺淳一先生が週刊誌『週間新潮』「あとの祭り」というエッセイを寄稿しています。 今週号で連載 358 と言いますから、もう随分長いこと掲載されていることになるんですね。 

今週のタイトルは「わたしが体験した戦後 和田心臓移植がおこなわれる」です。 日本初の心臓移植を行った和田先生とは、和田寿郎先生のことで、二年後わたしが入学することになる大学の胸部外科学の教授をしていました。 当時、高校3年生だった私は、テレビや新聞で連日報道される快挙のニュースに、ただ凄いことをしたんだな~というくらいの感想だったかも知れません。 そのニュースが、今の仕事を選ぶきっかけになったとも思いません。 ただ、とっても暑い夏だったことだけは記憶しています。

今週号の話は、これから書き進めるイントロのような文章で、「今や心臓移植を受けた宮崎信夫君の名は誰一人知らぬ者がなく、それとともに和田教授の名声は全国に知れ渡っていた。」という終わりかたをしています。 渡辺さんは、『ダブルハート』という小説を書いているし、その後の心臓移植についても意見を発信しているので、来週号からが気になるところです・・・。

そうそう、その心臓移植は、昭和43年(1986)の8月8日に行われました。 その年は、明治元年からちょうど100年が経っていました。 年の初めから、切ない事件が続いたという想いがあります。 東京オリンピックのマラソンで、アベベ選手と優勝争いをし、国立競技場まで2位で入ってきたものの大観衆が見守る中、後から走ってきた選手にトラックで抜かれてしまい3位の銅メダルになってしまった円谷選手の自殺報道などがあったからです。 

今日8月8日は、もう立秋です。 手紙の挨拶では「残暑見舞い」などとなります ヨ

【その年の主な出来事の抜粋をインターネットからコピーしておきます】
01/09 マラソンの円谷幸吉選手自殺.
01/17 佐世保で米原子力空母エンタープライズ寄港反対の抗議集会.(19日入港).
01/29 東大医学部で医師法改正に反対,無期限ストに突入(東大紛争の発端
02/06 第10回冬季オリンピック・グルノーブル大会.日本選手62人参加.
02/20 静岡県清水市で2人を射殺した金嬉老,寸又峡温泉の旅館に人質13人をとり龍城.24日
逮捕(金嬉老事件).
02/21 えびの地震,死者3人.
02/26 成田市役所前で空港反対の農民・学生,警官隊と衝突.
03/03 東京王子で米軍野戦病院反対の学生らデモ(18日開
04/14 日大の20億円使途不明金発覚(日大紛争の発端).
05/08 イタイイタイ病を公害病に認定
05/16 十勝沖地震,死者52人

05/27 日大生,全学共闘会議結成.
06/03 九州大学構内に米軍機墜落.4日学生・教授ら抗議デモ.
06/15 文化庁発足.
06/17 東大,当局に反対し安田講堂など占拠の医学部学生に対し,機動隊を導入.20日
全学部に紛争拡大

06/26 小笠原諸島,正式に日本復帰.
07/01 交通違反者にその場で罰金額記入した青キップを渡す「交通反則通告制度」スタート。
10.1交通違反点数制(ポイント・システム)もスタート.
07/01 郵便番号制スタート。当初の番号記載率は56%だったが、昭和63年には96%に達する.
07/07 第8回参議院議員選挙.
08/08 札幌医大教授・和田寿郎,日本初の心臓移植手術(83日後患者死亡)
08/18 岐阜県で観光バス2台,飛騨川に転落,死者・不明104人.
09/04 東京地裁,日大封鎖中の学生排除を執行.警官1人死亡.
09/26 政府,水俣病と阿賀野川水銀中毒を公害病に正式認定
10/13 第19回オリンピック・メキシコ大会.日本は215人参加.
10/17 厚生省,カネミ倉庫製米ぬか油中毒事件で販売停止通達(カネミ油症事件)
10/17 川端康成,ノーベル文学賞受賞.
10/21 国際反戦デー,全国600カ所で集会,デモ.反日共系学生,新宿駅占拠.22日騒乱罪適用.
10/25 最高裁,八海事件に無罪判決.
11/02 兵庫県有馬温泉の池之坊満月城で火災.30人死亡.
11/07 反日共系学生4300人,安保粉砕・沖縄闘争勝利を叫び首相官邸乱入.
12/10 3億円事件.東京府中市で白バイ警官に変装した男が現金輸送車を奪い逃走.
50年時効成立.
12/29 紛争中の東大・東教大,44年度の入試中止を決定




2011年8月7日日曜日

どすこい朝市

今日は、月一度の「日曜当番日」にあたっているため、朝少し早く起きて「どすこい朝市」に出かけてみました。 

7時が営業開始のはずが、7時5分に会場に着いたら、もう品物は販売の最中で、お目当ての物などは、すでに完売という塩梅なんです。 


売れ行きがいいと言えばそれまでですが、なんと早いことでしょう。

そこで、初めてポイントカードを作ってもらい、次回に役立てようと思っています。 

それにしても、みなさん朝早いです ネ

2011年8月6日土曜日

涌元出土古銭(2)

「はんどくん」で解明された開泰元寶
三人目の講師は、専修大学の三宅俊彦先生で「涌元出土古銭の謎に挑む パート3」というお話です。 サブタイトルが、-本邦初出土のベトナム古銭『開泰元寶』についてーというものですから、夕食も食べずに知内へ向かったんです。

今回初めて古銭の話を聴講したわけだが、謎解きのような面白さがありますね。 
知内でベトナム古銭がみつかったと言うことは、そこまで流通してくるルートというものがあるわけで、北方(サハリン経由)からのルートが否定的だと考えられるところから,南周りルート(本州)、つまり他の日本国内の土地から廻ってきたことになり、必ず日本のどこかに存在しなければならないことになります。 と、推理し、パソコン検索したら、

実は、開泰元寳はコイン商で売買されています。 伝世銭としてマーケットに出てくるそうです。 家宝を売却したもの、蔵を整理したときに発見したもの、コレクターがベトナムで購入して国内に持ち込んだもの、コレクションを放出したもの等があるそうです。それなりに高価な古銭で、マーケットに出ることはほとんどないそうです という文章が載っていました。 やはりと言うべきでしょうか。

交易の代価としての通貨(銭)ですから、いつも見慣れて使いなれている銭は安心できるが、見たこともない銭は、ニセ銭かまがい物かと疑うのが普通ではないでしょうか。 その後の出土古銭で国内最大と言われる函館の志濃里(海苔)古銭(374,436枚)や新潟県越後湯沢の石白古銭(271,683枚)でも知内と同じものは見つかっていません。 ほんとうに不思議な話だと思います。 

その点について、三宅先生の話では、ベトナム銭といっても、実際は自国産はきわめて少なく、中国(宋、明などの年代)で造られていたものらしく、貨幣本来の役目を担うには、流通量が少なすぎるという解説です。 貴重品だったから、ひょっとするとプレミアがつくほどのものだったというのだろうか? おそらく、函館高専の『はんどくん』を用いて再調査すれば何枚かは見つかるのでは・・・。
講演する三宅俊彦先生

さて、わたしは別の点に注目してみました。 同じ新聞記事によると、涌元出土古銭のなかにもう一種類のベトナム古銭「景統通寶」が発見されたということです。 「景統通寶」は、1498年-1504年の鋳造となります。 いままでは、中国・明の「宣徳通寶」(1433年)が最も新しいもの(最新銭)と考えられていました。 埋蔵された年代を特定する根拠として、出土古銭の一番あたらしい古銭(最新銭)の年代を起点に考えるそうです。従って、1433年の宣徳通寶の場合と、1498年の景統通寶では埋られた年代が今までより65年も新しいことになります。  

ということは、『コシャマインの乱』が起きたのは長禄元年(1457)で、アイヌに攻められた脇本館は簡単に陥落してしまいました。 戦いに敗れた館主の南條(季継)一族はじめ、和人の多くは他の土地への避難・逃亡を余儀なくされたことでしょう。その際、交易に必要不可欠ではあるが、再度戻ってきた時に使えるようにと、今回研究されている通貨(銭)を漆塗りの四角い籠に詰め込んで埋めたと考えても良いのではないだろうか。 

しかし、その埋蔵がコシャマインの乱の時とすると、最新銭(景統通寶)との年代が合いません。 それより凡そ50年ほど経ってから埋蔵した計算になるからです。 歴史上は、コシャマインの乱後も脇本館は復活し、和人がそこで生活していなければ話が合いません。

年表を見ていますと、永正9年(1512)の「ショヤ・コウジ兄弟の戦い」という出来事があって、再び脇本館が陥落したという事実が判明しました。 東部アイヌの首長の庶野・匐時(コウジ)兄弟が蜂起し、志海苔館、箱館は彼らアイヌ軍に占拠され、志濃里や宇須岸あたりは100余年間に渡って荒廃したと考えられていることから、脇本館も例外ではなかったと思われます。  なぜなら、翌年の永正10年(1513)ショヤ・コウジは大館(松前)をも攻撃し、館主の相原季胤、副館主の村上正儀の両名を自害させ、大館を落城させてしまったからです。 それほど、その兄弟は強かったのです。

従って、その出来事のあった頃に今研究されている通貨が埋められたと考えますと歴史上の年代が一致することになります。 たぶん、おもだった館(箱館、志海苔、与倉前、穏内)は陥落し、そののち和人経済の中心は上之国や松前へ移っていったと考えられます。 


その松前の大館は空城となっていたが、永正11年(1514)上ノ国館の蠣崎光広・義広の夫子が突然上ノ国のから移ってきて、大館を改修し徳山館と改名して本拠地とした。 あまりにも出来すぎた転居のため、前年のショヤ・コウジの蝦夷蜂起は、蠣崎光広が大館欲しさのあまり蝦夷軍に大館を攻撃させたのではないかという陰謀説まででています。


ここで、南條家蠣崎家(松前家)の関係をおさらいしておきましょう。 南條家は、初代南條季継のあと、光継、廣継と代を重ねていきます。 蠣崎家は、一世蠣崎信廣のあと、光廣、義廣、季廣、慶廣(初代藩主)と続き、松前と名を改め、以後明治元年の13代徳廣(のりひろ)まで存続しました。 

両家の交わりは、南條家3代廣継が、蠣崎家4世季廣の娘と結婚したことに始まります。 

その縁で、1521年に幼くして上ノ国の勝山館を継いだ蠣崎基廣は南條廣継のもとで育てられることになります。 1548年、待遇に不満を持った基廣が謀反を起こしたとされ、季廣によって討伐されます。 そのあとの勝山館の館主に南條廣継がなります。 

こうなると、大館の館主の4世季廣の跡目を巡って色々な謀略が起きます。 なんとしても夫・南條廣継を蠣崎家の家督後継者にと願うあまり、廣継の妻は実の弟達(季廣の長男、二男)を相次いで毒殺してしまいます。 勿論、この事は露見し、南條廣継と妻は季廣によって討たれてしまいます。

これで南條家は歴史上から抹殺されるかと思いきや、廣継の嫡男宗継がこれまで以上に忠誠を誓い、それが蠣崎家に届き、南條家の家督を相続(4代目)できることになり、江戸幕府300年間松前家の一家臣として明治維新まで仕えました。 

その南條家の子孫は、たしか現在札幌に住んでおられるはずです。 というのも以前、松前藩の参勤交代の役目を負った南條家のひとりが、克明に参勤交代の行程日記を付けていて、その古文書が札幌で発見されたことを、今回の講座を企画してくれた知内郷土資料館の高橋さんが新聞発表されていたことを想いだしたからです。 

歴史を学ぶ醍醐味を今回も味わうことができたような気がして感謝です ネ

2011年8月4日木曜日

涌元出土古銭(1)

今夜6時半から、知内町郷土資料館主催の「ふるさと講座」が行われるというので、仕事を終えた後、知内町まで車を走らせた。
司会の知内郷土資料館の高橋さん

開講のちょっと前に着いたもので座席が一番前しか空いてなく、講師3人の先生方をま近に見る位置に座った。 まあ、そのおかげでスライドが良く見えたし、話も良く理解できました。 話の内容を立派な冊子にしてくれていることも嬉しかった。



涌元古銭とは、1951年に知内町涌元地区で、道南十二館のうちのひとつ「脇本館」址と考えられる場所の近くで発見されたもので、漆塗りの四角い籠(かご)の中に996枚入っていたそうです。

工藤勇治さんという方が持っていたらしいが、2007年に知内町郷土資料館に寄贈され、その時から今日まで函館工業高等専門学校(高専)が主体となって、その全容解明に努力し研究してきております。 

「開泰元寶」を説明する
専修大学の三宅先生
今日の三人の講師のうち、高橋直樹さんと中村和之さんは共に高専の先生で、「開泰元寶発見秘話」「涌元古銭に含まれるベトナム銭の非破壊分析」と題するお話をしてくださいました。 高橋先生と生徒さん達が、300枚づつ三回に分けて古銭の山から取り出した古銭を、一枚一枚拓本をとりながら丹念に調べていくと、どの分類にも当てはまらないような古銭が見つかりました。 

そのうちの一枚が今まで見たこともない「開泰元寶」だと決定されるまでに、二度三度と発見の機会を見失ったが、結局本邦初の発見というかたちで立ち会えたというエピソードを面白く話してくださいました。 この時大活躍したのが「はんどくん」というソフトウェアで、携帯でも出来るように開発された現代機器でした。 それにしても、研究者冥利に尽きる成果でした ネ

2011年8月2日火曜日

健康だより 第19号

今回は、『ABC検診』の実際として、高崎市のの検診事例を中心に記事をまとめました。
ヘリコバクター感染の有無と萎縮性胃炎の程度の違いによって、胃がんの発生頻度に差異があるという
事実(疫学調査や臨床研究による)から、効率の良い・人にやさしい検診システムが構築できるものと
考えられております。 そうした事を踏まえて、当町の胃がん検診の改善を希望するものであります ヨ

ど・どどどの同窓会

「向日葵の会」松川久子
わたしの卒業した高校は函館市にあります。 歴史と伝統のある道立学校で、開校以来110年以上も経っている筈です。

卒業生も各々の業界で大勢活躍しており、文筆業も例外ではありません。 

昨年のこの日記に、道新夕刊に毎月一度エッセイを書いている宇江佐真理さんのことを載せたことがありました。 わたしの1年先輩で、江戸時代を題材に、人情味豊かに市井の生活を丹念に描きだしていて、心温まる作品を世に送り出しています。 人気のあるベストセラー作家です。

ですから、地元の「白陽会」で、有名作家の宇江佐さんを講師に呼んで文化講演会を行いたい旨を伝えたところ、断られてしまいました。 何度もお願いしたのですが、結果は同じで、未だに実現しておりません。

ところが、今日の道新夕刊の彼女の『見上げた空の色』のエッセイ中に、その断りの理由が語られておりました。  「なるほど!」と、妙に納得してしまいました。

自分の若かりし時代の、あまり思い出したくない過去を十二分(?)に知っている仲間を前にした時、人はどうしても無口になりたがります よ ネ

2011年8月1日月曜日

葉月

「なご美会」池田龍夫
きょうから8月。 葉月とも言いますが、今日は、「花火の日」でもあります。

戦後、花火が解禁された1948年と、東京の花火問屋で大規模な爆発事故があった1955年の8月1日を記念しての記念日です。 夏は花火が良く似合います。

函館市でも今夜は花火大会の日です。 函館港周辺は交通規制が行われ、観客がゾロゾロと会場へと向かっていることでしょう。 今のところ天候にはまったく問題は無く、絶好の花火日和というところです ネ