2010年1月31日日曜日

ちょといい話

1/31(日)
 今日は、マイブログリストにある「医学処-医学の総合案内所」からの抜粋記事です。

 あまり大きな報道がなされていないので一般の方々には分からない人もいると思いますが、日本人としてしっかりと自己主張をし、日本をアピールしている日本男子がいることに誇りを持ちたいと思います。
 
 

2009年01月29日

医学ちょっといい話12「根路銘国昭氏の話」

238 音速の名無しさん 2009/01/28(水) 05:47:21 ID:c82jBkYi0
1993年、日本にアジア太平洋地域インフルエンザ・センターが作られた。

それまでアメリカ、イギリス、オーストラリアにしかなかったセンターが
日本に設置されることになったのは、なぜか。

インフルエンザ・ワクチンは、毎年、WHOの専門家会議で、データをもとに今年流行しそうな
インフルエンザを決定し、それに基づいて製薬メーカーがワクチンを作っている。
それまで日本はその元になるアジア各国の膨大なデータを収集し
WHOに送付する仕事だけをやっていた。

担当していた根路銘国昭氏は、これだけの仕事をやってるのに、
日本にインフルエンザ・センターがないのはおかしいとWHOに手紙を書いた。
それに対する返事は
「WHOも国連の安保理と同じで第二次大戦の戦勝国で構成している。
よって日本は入れない。」というものだった。
彼はさらに抗議の手紙を送ったが返事は同じ。
それどころか、WHOに批判的人物として、彼と日本に対し冷淡になったという。

ここで普通の日本人ならどうするだろうか。
なんとか謝罪して、今までどおりの扱いにしてもらおうと努力するか、
そもそも抗議など最初からしないかもしれない。

だが根路銘氏は違った。
なんと、日本が集めていたアジアのデータを1年間、WHOに送るのをやめたのだ。
インフルエンザの大半はアジアから発生するから、そのデータがないと
ワクチンが作れない。WHOは大騒ぎになったという。

そして翌年、根路銘氏にWHO専門家会議への招待状が来た。
その会議で、日本にアジア太平洋地域のインフルエンザ・センターを
作ることが決定され、彼が初代センター長に就任することになった。

こうしてインフルエンザセンター長になった根路銘氏だが、
WHOはアメリカの製薬メーカーの意向を受けた学者が力を持つ世界だった。

1993年フランスで開かれた国際会議で、アメリカが新開発した
生ワクチンを、まず日本で使うべしという議題があがった。
日本は生ワクチンの効果には疑問をもっていて既に使わなくなっていた。
根路銘氏は、「日本を実験台にして、うまくいけば各国で使うつもりだろう」
と感じたという。
その会議には日本の学者も数十人参加していたが誰も反対しなかった。

根路銘氏ひとりが、「日本は先進国であり、ワクチン政策に君たちの指導を
必要とする国ではない」と反論した。
そこでアメリカの学者に、君たちのデータをOHPで映してほしいと頼んだ。
そして日本のデータと比較すると、日本のワクチンの方が明らかに効果があるとわかり、他の学者からも「ネロメの方が正しい」
と意見があがった。
こうしてこの議題は流れ、日本人がモルモットにされるのを防いだ。

根路銘氏はこうも言っている。
「この会議の後、対立したアメリカの学者とすごく仲良くなった。日本人同士だとこうはいかない」

またジュネーブのWHO本部で12人の専門家によるワクチン決定の投票において、
アメリカのワクチン11票、日本のワクチン1票でアメリカ製に決まった。
もちろん1票は根路銘氏のものだ。根路銘氏は科学的に見てこの結果はおかしいと
閉会30分のコーヒーブレイクのときに、2日間の討議で使った110カ国のデータを
つき合わせてコンピュータにかけた。するとアメリカ製は日本の半分しか効果がないと出た。
彼はこの結果を見せて、居並ぶ学者たちに
「君たちは政治家か、科学者か。科学者ならこのデータをどう見る」
と問いかけた。すると議長がテーブルを2回たたいて
「私の判断で採決を取り消します。ドクターネロメが提案した日本の意見に従います」
と結果をひっくり返した。「まるで映画のようだった」と根路銘氏は言う。

関連
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医学処:医学ちょっといい話5
医学処:医者の現実 -医療者の立場から-

2010年1月29日金曜日

福島町医歯会総会

1/29(金)
 この頃は、出かける時の「くつ」の心配をしなければなりません。 夕方すこし雪が舞っていたので、帰宅する深夜頃は、たぶんある程度積っているだろうと考えて、「長靴」を履いた。

 町内の「医歯会」の総会を、飲み食い所で開いた。 大型でもない決算だが、しっかり監査役に仕事をしてもらい、大きな拍手で承認されました。 今年も「社会協議会」や「花火大会」、そして「駅伝大会」への協賛・救護活動など、町内で行われるイベントへの継続事業を行っていくことを確認しあって、総会は懇親会へとチェンジしていった。

 今年の『健康フェスティバル』は、しっかり事業を検討して、新たな気持ちで、11回目をやりたいものです。 また、会員の親睦のため、岩部・矢越岬の海岸線の探訪も計画してみたいと考えています。 

 ここ福島は、海岸線がとてもきれいな地形で、国定公園にもなっているわけだから、地元に住んでいるわたし達がその良さを十分堪能し、町外へ発信しなければならないでしょう。 

 ところで、道南は毎年降雪量は少ないところなんですが、今夜は「長靴」で正解でした。 夜中でしたから当然とも言えます・・・ ガ

 

2010年1月27日水曜日

新年会

1/27(水)
 月末になってしまったが、院内の「新年会」をしました。
 
 職員はみな其々良く自分の持ち場を固めて仕事をしてくれているので、わたしにとっては大助かりです。大いに食べて、呑んで・・・と言っても、職員はノン・アルコール組の人が多く、さっぱりジョッキが空きません。 

 それでも、数々の料理に舌鼓をうち、日頃の忙しさから解放され、ちょっとした楽しいひと時を過ごすとができました。 おつかれさま!

 また、明日からハリキッテ下さい ネ

2010年1月26日火曜日

まち医者

1/26(火)
 今日もとっても寒い一日でした。 仕事ももう終わろうという時刻になって、「容態が急変したので・・・」という電話が受け付けに入った。 

 昼まで何の兆候もなかったが、夕食の時間になったので、ベットから居間まで介助されて歩いて来た90歳前半の老女が突然血液を吐いてしまったという内容のものです。 吐血です。 彼女の基礎疾患から「急性出血性胃炎」か「胃潰瘍」が考えられたため、一刻も早い処置をしなければなりません。

 ちょうど院内勉強会を行ってましたが、急遽患者宅へ急行し、バイタルチェックの後、受け入れ病院を家族と話し合って決め、病院の了解を取った後、救急車の出動を要請し、搬送した。  その間、救急車を発たせるまで外に立っていたが、寒気は足元から吹き上げてくるようで、すっかり冷え切ってしまいました。 かじかんだ手で帰りの車のハンドルを握らねばならず、つらかったが、老女の安否はそれ以上に心配されました。 血圧が100を切っていたものだから・・・。 

 「かかりつけ医」としてのわたし達の仕事は、時間や曜日に関係なく、突然容態が変わったり、新しく病気が発症したりすることへ機敏に対応しなければならないので、緊急時の応対システムを構築しておかなければなりません。  と同時に、患者さんやその家族への「病気・病状」の説明を良くしておき、理解を深めておく必要があります。 

 一人の医者のできる事には限りがありますから、他の医療機関と連携を緊密にしておく必要が絶対にあります。 そうした地域の医療連携のもとで、かかりつけ医としてのまち医者があるのです ネ
 

2010年1月25日月曜日

町史研(運営委員会)

1/25(月)
 大雪の中、町史研の運営委員の方々に集まってもらって、総会の日程や今年の活動内容について話合をしました。 例年どうり、毎月の例会を3月から始めることにして会員の分担を決めたが、昨年から町の教育委員会と共催している3回目の「講座」を誰が担当するかで、結論がでませんでした。

 この町の歴史を、解りやすくまとめて話をすることはなかなか大変なことで・・・す。 ポイントを絞ってやらないと理解してもらえなくなってしまう恐れがありますから。 

 一昨年までは、松前町の永田富智先生に専任講師をしていただき、わたし達は生徒として例会に参加していました。 それが、先生が札幌に居を構えてからは、わたし達会員で活動をしていかなければならなくなってしまいました。 

 それはそれで、自ら勉強をしていかなければならないので、自立心を養うにはいいのですが・・・。

 あせらず、こつこつ「地元の歴史」を掘り起こしていければいいか ナ

2010年1月24日日曜日

なご美会

1/24(日)
 福島の『なご美会』が行っている「絵手紙ボランティア」の活動も、半年が過ぎて、手紙を送る先が45名以上にもなっています。

 今回、そこまで絵手紙の「輪」が広まってきたことから、会員の慰労も兼ねた懇親会が町内の飲み食い所で行われました。 毎月何人分か受け持つ人には大変でしょうが、手紙を待っている方が大ぜいいるので、気が抜けないとも話していました。 きついかも知れませんが、みなさん楽しんでもいるようです。

 絵を描き、ことばや文章を添えて完成しなければならないので、結構 前頭葉が活発に働いているものと推測され、書き手のみなさんの脳の活性化に役立っていることでしょう。 

 がんばれ! なご美会!!  です ネ

 

2010年1月23日土曜日

祝 300回

1/23(土)
 11年目を迎えた「福島白楊会」の総会が町内の「S」店で行われました。  活動として、福島町と松前町の両町の学校に図書を寄贈するということが決まりました。  毎年小額ですが、10年間を一区切りとする予定で始めます。 

 少子化の勢いが加速度的に増している両町にとって、子供たちは宝です。 ゆくゆくは故郷を巣立っていく彼らが、大海で元気にやっていけれるように、わたし達が今まで得た経験や知恵を語りかけるということも、町内に暮らしている大人の責任ではないでしょうか。

 会の名称を、「福島-」から「福島・松前白楊会」に変更し、その後新年会を行いました。  


 ところで、『オガクリ日記』は今日で、ちょうど300回目の投稿となります。 自分ながら、よく続けてこれたなと感心します。 その時々の感じた気持ちをキーボードに打ち込むのは、楽なようで結構たいへんなことなんです。 団塊の世代は、メカに弱いという定説もあるように・・・。

 でも、慣れると言うことは少しずつでもパソコンの上達にも結び付いてきており、あとは「内容」の進歩ということになります。

 今日はもう一つうれしいことがありました。 あたらしい命の誕生です。 よかった ネ

2010年1月20日水曜日

T リンパ球と慢性炎症

1/20(水)
 昨年、「メタボの仕組み解明」という新聞報道がありました。  東京大学の循環器内科のグループが、米医学誌ネイチャー・メディシン電子版に発表した内容を伝えたもので、マウスの脂肪組織を染色し、生きたまま可視化する方法を開発することによって、高脂肪食を与えたマウスの内臓脂肪とその周囲の細胞で炎症が起きる経過を調べることができたそうです。

 その結果、肥満した脂肪組織では免疫細胞の一つ T リンパ球が増加し、これがマクロファージという細胞を呼び寄せ、慢性炎症を起こす引き金になっていたというわけです。  

 一方、T リンパ球を除去したり、もともとTリンパ球を持たないマウスでは炎症はほとんど起きなかったし、こうしたマウスにT リンパ球を外から補充すると炎症が起きることも分かったそうです。

 研究チームの真鍋一郎特任准教授によると、肥満だけでなく、動脈硬化も「慢性炎症」が原因となっているほか、がんアルツハイマー病などでも関与が指摘されていると言います。


 ところで、T リンパ球と言えば、「サプレッサー」「ヘルパー」の二つの亜群に分けられることを世界に先駆けて証明したのは、元東大の免疫学の教授だった多田富雄先生です。  1970年代のことで、「免疫学」が目覚ましく進歩・発展していた時期でもあり、若い研究者達(わたし達も)が夢を追いかけていた年代でもありました。 その後の多田先生は、脳梗塞になり、半身まひとなったが、「能舞」にかける意気込みは凄まじく、その情熱は介護リハビリのための入院期間制限の問題にも向けられて、文筆や講演活動などでも活躍されています。 

 先生の物腰はたいへん穏やかで、たしかスコッチウイスキーが好きだったと思いました・・・ガ

2010年1月19日火曜日

自然治癒力

1/19(火)

 自然治癒力という能力が人にはもともと備わっています。 

 ちょっと転んですりむいても、水洗いできれいにしておけば傷は知らずしらずに治ったり、鼻水を流していても何日かしたらきれいになっていたりと、子供の頃よく経験したものです。 青っ鼻で洋服の袖をテカテカにしてても、熱も出さずに遊びまわっていた頃もありました。 
 
 医学が進歩した現代においてもというか、現代だからこそ生まれながらにして人に備わっている能力(治癒力)が充分に発揮されるように振る舞わなければなりません。 進歩した医学・医療は、人の自然治癒力が働いてくれていることが前提で成り立っているからです。

 『オガクリ健康だより』で紹介した漢方学の本間行彦先生が、「免疫力は精神力だ」 と言った意味も、そうした本来人間が持ち合わせている“内なる能力”のことを指していると思われます。

 今日は、NHKが制定した「のど自慢の日」だそうです。 1946年ですから、終戦の翌年の1月19日にラジオの「のど自慢素人音楽会」が始まったことに由来しているそうです。 今ではカラオケが普及し、宴会となると、どこでも誰でも美声を披露できるチャンスがあり、ストレスの発散にもなっているわけです ネ

 

健康だより第10号

1/19(火)
 今回は、「かかりつけ医を持つ」ことをタイトルにしました。

 今月7日のブログ『七草粥』を、『出逢い』という題名に変えて掲載しました。  本間先生が相談をうけた患者さんが、先生との出逢いをしたことで、その後の生き方を変えるきっかけになったというわけです。

 がん難民と呼ばれる患者さんは、じつは多いのかもしれません。 わたしたち医者が、はたして十分に患者さんが求めている事に応じられているのだろうか、という疑問もあります。 時間を十分さいて、話を聴いてあげれているのだろうか・・・とも。 

 わたしが医者になった頃は、乳がんや子宮がんの告知は普通に行われていたものの、他の臓器のがん告知については、患者からの要望があっても事実を濁して説明していたものです。 今とは格段の差がありました。 親身になってくれる『かかりつけ医』は、こころの拠り所としていて欲しいものです。

 もう一方の話題は、『メタボ健診』の話で、これも今月11日の函館新聞に載った記事からまとめてみました。 渡島・桧山の各自治体の2年間の受診率の結果をみると、どの自治体も受診率が伸び悩んで苦労しているのがわかります。 

 初年度52.2%と貢献した福島町でも、2年目の途中経過では、30%に届いていません。 総じて上位にランクされているのは、桧山支庁の町が多いようです。 3月の最終結果を待ちたいと思いますが、受診率アップの方策を住民みんなで考えていかねばなりません ネ

2010年1月18日月曜日

福島町の地域福祉計画

1/18(月)
 昨年の8月から始まった 「福島町安心生活創造事業推進及び地域福祉計画策定委員会」 の今年度最後の会議が、今晩役場で行われました。

 地域福祉計画の案についての最終協議でした。 今まで4回の会議で出されたさまざまな意見を集約して作られたもので、

     『一人ひとりのしあわせを大切にするまち みんなの福しま』
          ~しあわせ 愛ランド ふくしま~

を実現目標とし、健康・安心・協働福祉を基本方針と定めて計画を進めていくこととしました。

 なんだか難しい計画のようですが、今福島は急速な勢いで少子高齢化が進んでおり、平成2年と20年の人口比較を見てみると、図のような状況なのです。 これでは、5年~10年後の福島はどうなるんでしょうかと思わざるを得ません。

 地域での“共助”という考え方が、“自助”“公助”ということと共にとても大事になってくると思います。最近は田舎でも隣近所の付き合いが希薄化してきていると言われ、災害などでなくとも、ちょっとした助け合いなどでも不便を感じることがあります。 

 今後、計画の内容はパブリックコメントをした後で、概要版の小冊子として全戸配布される予定です。 さらに5年間、計画の実行が成されているか否かの自己検証をしていくことになり、この推進委員会はある意味重い責務を負わされたことにもなったわけです。 

 福島で生まれ育ち、“外の世界”を十分見てきた人たちだからこそ、古里に必要なもの足りないものが分かるんのではないだろうか。 これからも人の意見を充分聴きながら語り合い、絆を強くする人間関係を築き上げていけたらと思います ネ

 
                 図; 福島町地域福祉計画(案)より

2010年1月17日日曜日

新年医学研修会

1/17(日)
 渡島医師会の新年交例会が昨夜、函館市内で行われました。 ひどい吹雪の悪天候にもかかわらず、例年よりも多くの会員が出席してくれました。

 それに先だって、「新年医学研修会」を、札幌から菊池健次郎(旭川医科大学名誉教授)先生をお招きして行ないました。 『大規模試験を本音で評価しよう』というタイトルで、約一時間半の講演でした。

 先生によりますと、循環器科において、特に高血圧に関しての日本発の大規模臨床試験は10くらいあるが、諸外国から認知され、信頼された大規模試験は少ないということでした。 むしろ、試験で比較するエンドポイントとして挙げている項目がソフト(不整脈とか病院へ入院したとか)の方が多く、ハード(心筋梗塞や脳卒中や死亡)のエンドポイントで評価していない点、信頼されていないんだと力説し、しかも『Lancet』や『JAMA』と言った外国の一流雑誌に送った原稿がリジェクト(除外、掲載不可)されたという事実もあり、日本での研究のありかたに不信感を持たれているということも話してくれました。 

 降圧薬の種類は多く、そこに新薬が発売されると、とかくその利点だけが喧伝されるため、少しでも早く充分な降圧をしてくれるように、そうした薬を処方しがちであるが、「大規模試験」の結果を鵜呑みにしなで、納得いくまで薬の説明を受けて使用すべきだという話なのです。

 講演の内容は、菊池先生の臨床や研究に対する理念(真実や本質を見極める)で一貫しており、そのことはわたしたちの日常の診療態度にも通じる事だと感じました。

 氾濫する情報の中からどれが正しく、なにが不実なのかを見極めれる“観察力”を養うことが必要ですし、菊池先生のような「ご意見番」の話を聞く機会を多く設け、正しい診療ができるよう心がけることが最も大切だと、「新年」にあたって考えさせられました ヨ
 

2010年1月12日火曜日

がんの匂い

1/12(火)
 千葉県南房総市に「がん探知犬育成センター」という施設があり、そこにわが国初のがん探知犬リーンがいます。 マリーンは8歳のメスのラブラドルレトリバーで、もとは水中探索犬だったが、嗅覚が並はずれて良かったため、所長の佐藤悠二さんが、がん患者の呼気を東京都内のクリニックから提供してもらい、がん“かぎわける”ことができるように訓練したそうです。

 福岡歯科大医科歯科総合病院の園田英人先生が、大腸がん患者と非がん患者の呼気や便汁をランダムに育成センターに送り、2008年から8カ月間データを取ったところ、正答率は100%に近かったという発表を昨年10月の日本癌学会で行いました。 もちろん佐藤さんも答えを知らないで行ったもので、「驚きですが、紛れもない事実」と話したそうです。 

 その後、大腸がん患者の呼気を嗅がせて、胆管がん、前立腺がん、乳がん患者などの呼気を入れた箱と非がん患者の呼気を入れた箱を識別できるかテストしたところ、みごとがん患者の箱を当てたそうです。 
 ですから、がんを患った人には共通する特有なにおいがすることは想像できますが、がんの何を嗅ぎ分けているのかはまだ分かりません。

 「においで病気が分かったら医者は要らない」と、育成を始めたころ佐藤さんはある医師に言われたそうですが、今では国内外の研究者が、手掛かりを求めてアクセスしてくると言います。 においで病気が分かる時代がくるには、マリーン以外の犬の後継者が必要で、現在4匹が訓練中だということです。

 新年早々、驚きの記事を道新で読みました。 共通するにおい物質が分かれば、今よりも簡単にがん検診ができるようになり、医者の仕事もより精密な診断と治療の方面に注がれるようになっていくことでしょう ネ


2010年1月10日日曜日

新成人と酸素


1/10(日)
 明日が成人式とは、古いかもしれないが、まだピントこない。  成人式は「1月15日」という日に慣れ親しんでいたため、ハッピーマンデー制の導入によって、現在の「1月第二 月曜日」という決め方になったが、まだしっくりこないでいます。

 でも、二連休または三連休となることから、勤務サラリーマンにとってはありがたい制度といえます。 
もちろん私たちにとっても連休はのんびりできるので助かります。 正月休みの延長のよう気分でもありますから・・・。

 先週の水曜日の道新に、當瀬規嗣(札医大医学部長)先生の「生きるしくみ」のコラムが載っていました。 “人は酸素でできている”というタイトルで、人の体重の約65%が酸素であるということでした。 酸素は物を燃やすために必要で、燃えると熱、光、爆発などの形でエネルギーも生じます。 

 人は生きてゆくために必要なエネルギーを取り出すために酸素を使っているのです。 その酸素は空気から取り入れているのだから、胸一杯空気を吸い込むことで、体に力がみなぎり、元気が出るからという、當瀬先生からのメッセージです。

 明日、全国で127万人の新成人が誕生します。 みなさん胸一杯に吸い込んでください、新年の空気を です ネ
 

2010年1月9日土曜日

ライオンズ新年合同例会


1/9(土)
 今年のライオンズの新年会は、松前ライオンズクラブ(LC)との「新年合同例会」という初めての試みで行われました。

 松前LCと私たちのクラブの関係は、40年前にさかのぼります。 その2年程前に設立していた松前LCの役員の方々が福島町まで何度も
来てくれて、LC設立にあたっての細かい事柄まで丁寧に詳しく指導して
くださったそうで、松前LCは福島LCのスポンサークラブとなっていま
す。 両町は隣どうしの町でもあり、行政以外の事では、民間レベルではライオンズでの関係のように、経済や医療でも交流が活発に行われています。    

 今回は、ライオンの会員とその奥さま方も一緒に参加するという「新年会」が行われ、色々な団体戦のゲームやビンゴゲームも行われて、おおいに盛り上がりました。 団体戦では、福島LC が逆転で勝利し、また大きな福袋もジャンケンゲームで当てた人もいて、楽しく過ごした2時間でした。

 最後に、4月24日(土)福島LC 40周年記念式典での再会を約束して新年会は散会となり、各々二次会へと向かいました。  式典までの準備を怠りなくしなくてはならないです ネ

2010年1月7日木曜日

七草粥

1/7(木)  朝、お粥を食べた。 七種類の野菜が入っていたか、たぶん入っていたと思うが不詳である。 


 七草粥の由来は、もうご存じだと思いますから、とにかく疲れた胃に負担をかけず、健康な一年を過ごせるようにと祈るばかりです。


 昨年の暮れ、道新の「朝の食卓」に札幌の内科医の本間行彦先生が “身は心の奴なり” という文章を投稿していました。 本間先生は、内科医ですが、漢方学にも大変精通しておられ、その道では超有名で、漢方に関する「本」も出しておられます。


 ある時、主治医から余命が何か月もないことを告げられた60代の末期がんの男性が、「漢方で免疫力を上げてほしい」と本間先生のところへ訪ねて来たそうです。 先生は、免疫力の主体は精神力であること、がんの場合、漢方はその手助けにすぎないということを話し、「釈迦は・・・人は生まれたら必ず死ぬと言ったが、人の生きる意味を、深く考え直してほしい。・・・毎日、いつ死ぬかとおびえ、追っかけられて生きるために、あなたの人生があるのですか。 残された時間がいかに大切かを考え直さないと、大変な悔いを残しますよ・・・」と、一時間ほど語りかけたそうです。


 件の患者さんは、涙ながらに先生の話を理解し、趣味の花作りから、町内のボランティア活動まで始め、表情もすっかり明るくなって、体重は3キロも増え、さらになんと転移した肺のがんの進行もストップしてしまったということです。


 「身は心の奴なり」とは、「体は心の奴隷」という意味で、江戸時代の貝原益軒が記した『養生訓』に書かれているそうです。 いつの世にも通じる名言とは思いますが、はたしてがん患者の誰でもがそのような心境になって、趣味を活かしボランティア活動などをやって、明るく暮らしていけれるものでしょう カ 


(付記;この題名を『出逢い』と変更して、「オガクリ健康だより」10号に掲載しました  1月20日)

2010年1月5日火曜日

きれいな馬糞

1/5(火)
 昨年の12月27日の日曜日、東京中山競馬場で第54回有馬記念が行われたのを、NHK-TVで観ていました。

 その日は年末でもあり、特段の用事もなく、TVを付けて、いろいろチャンネルを替えていたところ、午後の2時半過ぎだったと思うが、レース前のパドックで何頭もの馬が手綱を捉まえられて歩いているシーンが映し出されていました。 
 新聞を読むと、16頭の馬が出走するGIレースで、3歳牝馬のプエナビスタという馬が一番人気らしい。 二三周パドックを回って終わりかと思ったら、何と時間にして30分以上グルグル歩きまわっているではないか。  しかも驚いたことに、その間にも糞は出るわけで、今まで綺麗だったパドックの舗道はみるみる馬糞が目だち始めました。 

 ところが、その馬糞が黄色く見えるんです。 舗道のあちこちに落ちている馬糞のすべが綺麗な色(金色)に見えたんです。 ほんとうに驚きました。 しかも、その馬糞で汚れているはずの舗道を避けもしないで、まっすぐ歩いているではありませんか。 人も馬も、繰り返し何回も何回もです。

 子供の頃の田舎では馬の糞は珍しくもありませんでしたが、いろいろな形状をしてました。 干し草が未消化で団子状になったものや、色の濃い粘性のあるお団子状だったりしていて、もちろんちっとも綺麗だとは思わなかった。

 GI競争に出場できるような名馬は、厩舎ではとても大事に飼育されているのは当然なのでしょう。 たぶん餌が違うのだと思います、一般の馬とは。 また、糞の形状を見ることで、すこしは馬の体調を予想できるのかも知れません。 消化吸収が良ければ、排泄物もいいのかも知れません・・・?

 レース結果は、5歳牝馬のドリームジャーニーが、スタート時は最後尾だったが、4コーナーの直線で一気にトップに立って優勝をさらった。 北海道の白老ファームで生まれた馬に騎乗し、優勝を勝ち取った内田騎手は、同時に年間最多勝も獲得し、涙を浮かべてインタビューに答えていたのが印象的だった。

 また、同じ有馬記念に道営ホッカイドウ競馬所属のコスモバルクが出場していた。 8歳となったコスモバルクは、6年連続6度目の最多出場で、史上初となる記録を樹立し、10着でゴールした。 来年以降は、海外で走るそうだ。 がんばれ テネ

(古来、中国では正月の6日を 馬の日 というそうです)

2010年1月3日日曜日

同期会(’10)

1/3(日)
 昨年に続いて、高校時代の同期会に参加しました。 幹事の H君は、この会を立ち上げる時からだと言いますから、もう20年近くも会を引っ張ってきてくれているんです。 ごくろうさまです。

 今年は30名の出席予定ということでしたが、何名か急遽欠席になったようでした。 年齢的には、定年を迎える年代ですから、正月中何かと用事がうまれるものなのでしょう。  

 かと思えば、今年の夏に予定されている参議院選挙に出馬予定の同級生がいたりと、中々おもしろい盛り上がった会でした。

 昨日もブログで書きましたが、当時は人数の多い年代でしたから、高校時代も一学年10クラスで450名程の同級生がいます。 ですから、今日たった30名弱の人が集まっても、顔と名前の一致しない同級生が何人もおりました。 
 とくにわたしは、田舎の中学から大都会の“函館”の高校へ進学したものだから、一年生の頃は「お客様」のような高校生活を送ったように記憶しています。 二年生になって、やっと部活(放送部)に入部できる余裕がうまれ、函館地区の放送コンクールの朗読部門で第3位となり、あこがれの“札幌”のNHK放送局での全道大会に出場することもできました。 

 もちろん、わたしの結果は番外ですが、同じく朗読部門で第1位となって札幌へ乗り込んだ同じ高校の同級生のKさんは、札幌会場でもトップで通過し、東京の全国大会へ出場し、入賞(三位だったか?)を果たしました。 彼女は、大学を卒業後アナウンサーとなり、今は現役を引退し、家庭に入って四国で暮らしていると、これも高校時代放送部だった同級生の K君から昨年聞くことができました。 彼は宮城県に住んでいます。

 もう一人、同期の放送部員がいます。 彼の放送技術の程は、ハッキリ憶えていないが、ギターの弾き語りの上手さは抜群だったと、今でも鮮明に蘇ってきます。
 “イムジン河 水清く 滔々とながるう~う・・・” 彼の名は、 S君といい、東京に住んでいるそうです。 

 ぼくらは、みんな年男・年女です。 みんな全国のあちこちで元気にやってます ヨ

 (絵手紙は、松前の向日葵会より)

2010年1月2日土曜日

正義の鉄拳

1/2(土)
 今年の干支は、です。  

 「糖尿病徒然日記」のブログを発信している“ドクター江部”さんは、今年が年男だそうです。 
オガクリも同じ年代です。 互いに戦後ベビーブームの後半の一角を担っているというわけです。
 
 当時は小・中学校とも、ひとクラスの人数が50名に近く、教室の後ろまで一杯に机が並んでいたという記憶が残っています。 休み時間などは教室内の移動もままならず、遊ぶスペースも少なくエネルギーを持てあましていたんだと思います。

 ところが小学校5年生の時の教室は、校舎の造りの関係で教室の中に一階の玄関からの階段が付いているという他の教室とはまったく違う構造をしていました。 その分、教室のうしろ側が充分遊べる余裕があったのです。 授業終了のベルが鳴ると、待ってましたとばかりに友達同士ワイワイ・ガヤガヤいろいろな遊びに夢中になったものです。 時に、ちょっと危なっかしい遊びもあったと思います。
 
 ある時、突然“ガチャン”と、ガラスの割れる大きな音が教室内に響き渡りました。 みんなビックリして振り向くと窓ガラスの一枚が割れて、粉々になった破片が散乱しています。 破片の片づけが終わったあと、担任の K先生「誰がガラスを割ったんだ」と、クラスのみんなに訊ねました。 誰も名乗り出ません。

 K先生は、その時教室のうしろ側で遊んでいた生徒全員(7~8人だったか)をその場に立たせて、誰も名乗らないのは残念だ。 ガラスが割れたことは事実で、この中に犯人がいる。 が、誰が割ったのかわからない以上、ここで遊んでいた全員が責任を取らねばならない。 先生は、たいへん辛いが、制裁を加えなければならない。 みんな一列に並べーと、号令をかけたと思った瞬間、生徒みんなの左頬に“バシバシ”という音が響いていた。 K先生「これは正義の鉄拳。 覚えていてほしい!」と、悲しい目をして右手を振ったと思っています。

 わたしには、頬の痛みの記憶より、この言葉の語感の響きの方が今でもより鮮明に覚えています。 この時、自分に非がなくても「連帯責任を取らされる」ということも子供ながらに学びました。 小柄だったが大きく見得たK先生から、小5・6年の二年間で、この他にもとても多くのことを学び教えて貰ったと思います。

 昨年、偶然にもK先生の現住所が判明したと思っていたら、先生から今年の年賀状が舞い込んできました。 再会できればいいねという文が添えられてありました。 でも、会った時、何とあいさつを切り出したらいいのかちょっと思い悩みます・・・。  やっぱりその時は、45年以上も前にタイムスリップして、小学生に戻ったような気持ちになるんでしょう カ

2010年1月1日金曜日

年始

1/1(金)

 あけましておめでとうございます

 年男の今年は、足元を見つめ直しじっくり地固めしなさいという年だそうです。 そういう「寅年」生まれは、全国で1034万人いると言われ、寅年としては一番多い年代で、戦後のベビーブームの最後の年にあたるからです。 1/3に高校時代のクラス会があります。 どんな話題が飛び出すやら、今から楽しみでもあります。 

 今年もできるかぎりブログを続けていきたいと思っています。 何でも書き続け書き貯めておくことが、いつか「かたち」になるものだということを、昨年講演を聞いた江差の石橋藤雄さんから学びました。 石橋さんのブログ記事は、09・10・17に「箱館戦争と開陽丸」と題して載せています。 話を聞いていてその情熱に驚きました。  とても80代の年齢とは思われませんで、魅力ある先生でした。

 今年も多くの出会いがあることを念じています ヨ