2012年2月24日金曜日

チロップ館

当町の白符地区には、閉校した小学校を一部改修して「チロップ館」という名前の交流館が開設されています。 そのチロップの会の代表が、絵手紙の「なご美会」の代表者でもある熊谷正春さんです。

チロップとは、白符はアイヌ語でチロプと発し、鳥の多いところという意味があることから名づけられました。

絵手紙を長らく指導してこられ、ここ3~4年でしょうか旧白符小学校の教室を借りて「チロップ館」を立ち上げ、チロップの会も結成しました。 熊谷さんは民具の補修や工作を担当し、他にパソコン講習をするグループ、アマチュアバンドのグループなどが会員となって「チロップの会」が出来あがりました。



昨年も好評だった「ひな人形・武者人形祭り」が、明日2月25日(土)から5月中旬まで開催されることになりました。 体育館一杯に寄贈された雛人形が並べられ、みなさまのお越しをお待ちしていますというお知らせポスターが出来上がり、今朝一番でわたしの診察室の机の上に置いてありました。

たくさんの方々に観に行って欲しいと思います。 昔懐かしい民具・時計におもちゃなどノスタルジーいっぱいの空間も楽しんでみてはいかがです カ

2012年2月23日木曜日

ロンドンへの道

「なご美会」池田龍夫
23歳以下のサッカー選手が出場資格のあるロンドンオリンピック男子サッカーアジア最終予選C組が、一つの出場枠を巡ってマレーシアで行われ、日本4-0の結果で勝利した。 この後、日本時間0時30分から始まるシリア対バーレーン戦の結果待ちだが、とりあえず4勝1敗とし暫定一位です。

気温30度を越す暑さの中、湿度も70%以上だというわけで、走っている選手の顔はみんな汗だくだくで、足がつっているプレーヤーも何人か見られた。 今の雪の多い北海道からは想像もつかない気候です。 サイドバックの酒井選手、トップ下のMF(ミッドフィルダー)原口元気選手など動きがすばらしく、ピッチが悪コンディションにもかかわらず良く走って得点してくれました。 ホッ!


マレーシアと言えば、子どもの頃、もう50年も前の話になるが「快傑ハリマオ」というTV番組が放映されていたことを想い出しました。 サッカー中継のアナウンサーが、いまのマレーシアに「ハリマオ」という名前のサッカークラブがあり、若者はそこで練習しているというような解説をしていたから、「アッ」と言う言葉になりました。

当時は、所謂「ALWAYS三丁目の夕日」の頃ですから、テレビはどこの家にもあるもんじゃなく、お金持ちの家(商店など)にしかなかった時代です。 たしか夕方6時とか7時とかいう時間帯に放映されていたから、テレビのある家に「テレビをみせて下さい」と言ってお願いするしか術がなかったんです。 もちろんそこの家の子どもと友達になれば、優先的に観れる保証がついたも同然だったから、子ども心にも主と従のような関係を納得して友達付き合いをしていたと、はっきり想い出します。 

そんな関係が3~4年ぐらい続いた頃でしょうか。 子どもが卑屈になりかかっていたことを、たぶん親は知ってか知らずか、親父の乗り込んだ船がホッケ網漁で大漁した次の日に、やっとわが家にもテレビがやってきました。 今思うと変なことですが、テレビ画面を保護するためか舞台の緞帳まがいの布を前面にたらして丁重に超高級電化製品とみなして扱っていたものです。

その後、TV番組の「名犬ラッシー」「バービーちゃん」などのUSA物に感化されたテレビお宅となり、アメリカに憧ればかり抱き続けるこどもに育っていったようです。 

そう言えば、TV「快傑ハリマオ」の主題歌を歌っているのは誰だか当時はわからなかったが、上磯町出身の偉大な歌手三橋美智也だと知ったのは、ずっと大きくなってからのことでした ヨ

2012年2月22日水曜日

猫の日


「なご美会」矢野紀栄
今日は「猫の日」と言うそうです。 2月22日は猫の鳴き声「ニャン・ニャン・ニャン」とも読めるからだということで、猫の日制定委員会が1987年に制定しました。

また、熱々のおでんも「ふーふーふー」と息を吹きかけて食べることから、今日を「おでんの日」と新潟県のラジオ番組がいつのころからか制定しました。

が今日が、竹島の島が島根県に編入されて100周年が経つことを記念して島根県が2005年に制定した「竹島の日であるということを、どのくらいの日本国民が知っているだろう カ

2012年2月19日日曜日

TVドラマ 「妻を看取る」

「なご美会」池田龍夫
国立がんセンター名誉総長・垣添忠生先生が、奥さんの昭子さんを看取ったことと、そのあとの喪失感、深い絶望感に襲われた日々を、そして立ち直っていく長い道のりの日々を淡々と綴ったドキュメンタリードラマが今BSプレミアムで放映されている。

日本のがん医療の最高峰に立ち続けた医師も、多くの患者さんを看取った医師でも、身内のこととなると別なんだと自ら語った垣添先生は、泣くことの日々の中から、少しずつ少しずつ立ち直っていった。 

先生が靴と洋服の組み合わせの趣味の良さを褒められた靴磨きのおじさんに「妻を紹介するから」と、生前に昭子さんが描きためていた絵画の遺作展へ招待する声がけができるまでに立ち直ったシーンは、これからも目的をもって人生を生きていく証でもあると思いました。


死別による大きな悲嘆の反応は、人さまざまであるが不眠や食欲不振という体調の不調から、事実の否認や記憶違いや物忘れなど認知症的精神状況に陥ることもある。 その期間も数か月から数年にも及ぶこともあるようです。 

そうした悲しみをケアしてくれる「グリーフケア」という支援組織がある。 1960年代にアメリカで始まったと言われ、イギリスやドイツなどでも広く浸透しているそうです。 当事者(対象者)が事実を受け入れ、日々の生活・環境の変化に適応していく過程を支援してくれる活動です。 

垣添先生は今後、がん予防グリーフケアに情熱を注いでいかれる決意のようです。 先生が昭子さんと一緒にカヌーに乗ったことのある中禅寺湖を訪れ、晴々とした笑顔でドラマのエンディングを語っていたラストシーンは、人間の強さ・たくましさを表現してくれたものと思い安堵しました ヨ

2012年2月14日火曜日

バレンタインディー

日本では女性から男性へのチョコレート合戦ですが、イギリスではカードや花や本などが男性に贈られ、フィリッピンでは逆に男性から女性にチョコなど何でもいいが贈られます。 所変わればとは良く言ったものです。 

キリスト教圏では、ローマ帝国の時代の皇帝が兵士達に結婚はもちろん婚約することも許していなかった時期があったそうです。 ところが、ヴァレンタインという名の兵士がこっそり結婚をしていたことがバレてしまい、彼は生涯囚われの身(囚人)となってしまい、ついにLupercaliaの祭りの前の日、つまり2月14日に処刑されてしまいました。

死後、彼に「聖」の称号が与えられるようになった謂われはわかりませんが、とにかく彼が処刑された日(2月14日)を、「聖バレンタインディー」と呼ぶようになり、贈り物を交換する風習が定着したらしいのです。

ですから、イギリスでは必ずしもチョコレートではなく、告白の言葉を記したカードを添えた花束などが贈られるそうです。 何だかとっても悲しい起源だったんです ネ

2012年2月5日日曜日

生きる

「なご美会」池田龍夫
道新(1月31日)の「生きる」というコーナーに芦別市の吉村外茂二先生の記事が載っていました。

先生は芦別市内で内科系の吉村医院を開業されていたので、わたしが芦別市の病院に勤務していた頃、医師会の活動などで何度もお目にかかり、何くれとなくいろいろな事を教えて頂きました。 

大正14年生まれですから、もう86歳になられます。 背はわりと高く、ふくよかな顔だちにドッシリとした体形で、ちょっと腰を前かがみにして歩かれる姿が想い出されます。 当時は今のわたしと同じくらいの年齢だったと思うので、懐かしさと共にちょっと感慨深いものがあります。 

先生とは今でも年賀状の交換をしています。 毎年近況などビッシリと書き込んだものを頂きますから、今年はどんなことが書いてあるかといつも期待しながら楽しく読ませていただいてましたが、その理由がこの度の新聞記事で判ったような気がします。

大学時代から演劇活動をしていたせいからか、会議などでも声は大きく話上手なので一目おかれていたと思います。 文筆活動は、還暦を過ぎてから医療関係の文芸誌『医科芸術』に投稿をはじめられたということなので、わたしが芦別を離れる前後あたりだと思います。

その後、演出家の長岡輝子さんが翻訳されたアメリカのT・ワイルダーの戯曲「わが町」に刺激されて、先生は戯曲「わが町ー蘆別」を書かれたそうです。 その作品をきっかけに93年に長岡さんと初めてお会いし、以後8作品を執筆したそうですから大したものです。

現在も現役で本業とともに同人誌や新聞にペンを振るっていると言いますから、ますます尊敬してしまいます。 芦別の1世紀を何かの形で書き留めておきたいと言う意欲に脱帽です ネ

2012年2月4日土曜日

北北西の恵方巻き

今日は節分です。 、いつの頃から流行り始めたのかわからないが、節分と言えば「豆まき」という昔ながらの習慣が、最近では「節分の恵方巻き」がすっかり定着した感があります。 いったい誰が仕掛けた風習なんだろうか?

節分は、各季節の始まりの日(立春、立夏、立秋、立冬)の前日のことであったが、江戸時代以降からは立春の前の日だけを意味するようになったそうです。 季節の変わり目には邪気が生じると思われていて、それを追い払うための行事が行われていた。 「鬼」を払うという意味で、豆を鬼に向かって投げつける「鬼は外」という掛け声になったのでしょうか。 

一方、恵方巻きの始まりはいつからと問えば、やはり江戸時代からでしょうか? 秀吉の家臣の名前などもでてきて、もっと古いのかも知れませんが、いづれにしても大阪関西がルーツのようです。 なぜ恵方巻きかという説はたくさんあり、どれももっともらしいが全国展開しているセブン・イレブンのコンビニが国中に流行らしたらしいんです。 

最近では、ロールしていればお菓子でも、パンでもいいという大らかな気持ちから何でもいいですという便乗商法がまかり通っています。 何だか商魂たくましい関西人好みと言ったらお叱りを喰らうんだろうか?

今年の恵方は「北北西」ということで、福を巻き込んだ太巻きを無言で北北西を向いてどうか幸せな年になりますようにと祈りながら、「ガブッリ」と食べました。 

もう50年も前になるが、中学1年の時に観たヒッチコックの映画「北北西に進路をとれ」のワン・シーン(主人公がラシュモア山の岩肌に刻まれたアメリカの偉大な4人の大統領の顔の上で繰り広げるスリルある場面)が忘れられずにアメリカ留学したことなどを想い出しながら・・・。 


さて、数あるコンビニの中でも道内では「セイコーマート」が一番店舗数が多く、優良企業の一つに上げられています。 「セイコーマート」のセイコーは、創業者の西尾長さんからのネーミングらしく、3年前に社長に就任した丸谷智保さんはワイン城で有名な池田町の出身で、丸谷町長の息子さんです。 

徹底して地場産のものを使って加工し道民に提供するという姿勢は、弁当を各店舗で調理し温かいものを食べて欲しいというとっても難しいことをいとも簡単なことのようにやっていることからもわかります。 

離島や過疎の地方はもちろん、高齢化した都会の地域でも買い物難民をつくらないために新店舗を開いてくれるから、それらの地域の住民はどれだけ助かっていることか。 自前の農場・工場を持ち、流通も自前で、道内に散らばる各工場を高率良く輸送するシステムを構築しているからこそできるのでしょうか。 もっともっと「ホット シェフ」に頑張ってもらいたいです ネ

2012年2月1日水曜日

猛吹雪

本当に吹雪の中で立ち往生し、雪に埋もれて閉じ込められてしまうかという怖い体験をした。

今年の道南は例年にない積雪量です。 もちろん道央の岩見沢などのような報道されている処の量に較べたら少ないが、それでも多いと感じます。 

道路(国道228号線)の両側が人の背の高さ以上の雪の壁となって、先日除・排雪したばかりなのにまた同じくらいの高さにまで降り積もっている。 昨年までなら、国道と同時に歩道の雪も全部排雪し、その間にまったく雪を残さなかったのに、今年はどういう訳か国道と歩道の間に器用にも50~80cm幅の「雪の壁」万里の長城のように建設(?)している。 

そのため、車がわき道から国道に出る時や、人が自宅から道路に出るときなどは、一旦停止や最徐行または道路の左右を十分確認しないと、バッタリ車同士の衝突や車に轢かれてしまうということにもなりかねません。 

そんな状況の中、定期の往診日だったので、午後往診車に乗り込もうとしたら、猛吹雪です。 気温こそマイナス5度くらいだったが、風が横なぐりの北西の風(たばかぜ)だから、余計に厳しく感じる。 視界も悪く、オガクリから松前方面に向かって一軒目の患者宅に行くまでが尋常でなかった。 何度か対向車線にはみ出して運転していて、対向車が向かってくるライトにはじめてハット気づくくらい前方が見えづらかった。 視界5~10㍍くらいだっただろうか。

「福島町史」第二巻通説編上巻より
その後、福島方面に向かったところ、少し晴れ間がみえて回復の兆しかなと思わせる天候になった。 が、それも一時のことであった。 何軒か往診した後、オガクリに戻ってくる途中、日向という地区から慕舞(しとまい)を過ぎ、国道をわき道にそれて白符地区の七軒町という処に往診車を進めた。 そこら一帯はちょうど岬になっている地形で、その昔(江戸時代)切り立った崖になっていたため交通の難所とされていた処です。 少し緩やかな下りカーブだが、車は難なく進んだ。 

患者宅はSさんという80歳をだいぶ過ぎたご婦人で、この悪天候にもかかわらず気分が良いのか車いすに座っていた。 診察を終え、持っていった絵手紙で話が盛り上がり、どのくらいの時間がたっていただろうか? 車に戻った時、すぐ近くの海から物凄い潮風が吹き込んできた。 何となくイヤな予感がしたが、もう一軒往診先があるので、勢いよくキーを回して車を走らせた。

車が国道まで出るには、さっき下った坂の倍の勾配を上って行かなければならない。 走り始めてまもなくオートドライブ(D)での走行が難しくなり、ギアを2段か低速に入れないと馬力が出ないことに気がついた。 ますますイヤな気持ちが増してきたが、その坂を登りきらないと国道までもどれないんです。

何とかやっとの思いで国道との交差まで来たが、あいにく国道を行きかう自動車がいたので、こっちの方は一時停止しなければならない。  走り去った車の後に続くように勢いよく国道へ往診車を乗り入れようとアクセルを踏んだが前に進まない。 バックにギアを変えて少し後退してから、弾みをつけるように勢いよくアクセルを踏んだ。

ところが、同じくさっきの所までしか車は進まない。 同じことを何度かやったが、結果は同じだ。 外に出て車の前に周り見たら、もうタイヤの半分以上は除雪ブルトーザが残して行った硬めの雪に埋もれていた。 これではもう車はニッチもサッチも動かない。 あとは積もった雪を取り除くしか方法がない。

だが、うっかりしたことにスコップなど必要な道具を積んでいないことに気がついたが、フロントガラスの雪を払う箒棒ですこしでも雪をかきだそうと試みたが、岬の突端だから突風は物凄い勢いで襲いかかってきます。 みるみる体温が下がっていくのがわかるんです。 手はかじかみ顔はビリビリ痛みます。 もう駄目です。 オガクリにいる事務長に連絡し救助を依頼した。 

結局、ブルトーザが来てくれ、ワイヤーロープをつないで引っ張り上げてくれた。 その間、そこを通りかかった車や人も手助けしてくれました。 一時は「八甲田雪中行軍遭難事件」を連想させるような事態になったから、救助して下さった方々に感謝の気持ちで一杯です。 有難いことです ネ