2012年7月26日木曜日

熱波

「み」のサインはオガクリ院長です
今日は、今年の夏一番の暑さで、ここ道南でも30度を超える真夏日でした。 

それでも今日の仕事場(オガクリ)では、エアコンを運転しませんでした。 昨年までなら、とっくに使っていた家電製品を動かさないで、職員は勿論、そして患者さんたちにも協力をして頂いてます。 節電のため、計画停電が実施されないように願って・・・です。 

ちょうどオガクリは国道228号線に沿って建っているため、計画停電のエリア内に位置しています。 近くに消防署のポンプ車の倉庫があったり、町の吉岡分室があるのだが、バッチリ停電計画内に入っている。


ただ、身体の具合の思わしくない方々には、他にもっといい方法があるか明日以降考えてみましょう。


それにしても暑い日でありました ネ

2012年7月20日金曜日

函館港の花火

「なご美会」池田さん
先日の15日は「海の日」でした。 その制定記念として函館新聞社が函館港の緑の島から花火を打ち上げる花火大会を行ないました。

当日は、良い天気にも恵まれ、風もあまりなく絶好の花火の日と思われました。 夜の7時45分から始まった催しは、たくさんの人出で賑わい、仕掛け花火や大輪の花火が揚がるたびに子どもから大人まで黄色い歓声が上がっていました。 

ビデオを持ちだして、フィナーレの場面を映像化し、ユーチューブに投稿してみました。 アクセスしてみてください。

「函館港 花火大会 ~海の日制定記念~ Fireworks at Hakodate 2012」


花火を観るには浴衣姿が本当によく似合います ネ

2012年7月14日土曜日

夷酋列像がやってくる

2度目の里帰りの時のポスター
「チロップ館」に展示中
今月の23日に、フランス・ブサンソン美術館所蔵の『夷酋列像』がはるばる海を越えて松前に里帰りします。 


江戸後期の松前藩の家老であった蠣崎波響が、「メナシ・クナシリの戦い」で反乱の終息に貢献した蝦夷の長らをねぎらう為に松前に招いた時に描いた12枚の絵が素晴らしい出来栄えだったため、波響の絵師としての名声が一気に高まったと言われており、その絵の内11枚がブサンソンで発見され、今回が3度目の来道です。

そこで以前、宇江佐真理さんの『桜花を見た』という小説について書いたわたしの小文があったので載せてみます。




宇江佐真理『桜花を見た』を読んで

             福島町史研究会   小笠原実

宇江佐真理さんの著「桜花を見た」を知人から借りて読んだ。 本の題名は「さくらをみた」となっている。 初版が2004年だから、本を手にして読むまでに随分と年数がかかったものだ。

宇江佐さんは、函館市出身で、私と同じ高校の一年先輩の女流作家です。 道新の夕刊に、不定期のようだが投稿記事(ウェザーリポート)を書いている。 作家の山本一力さんらと親交のあることなど、身の回りに起きたその時々の事柄を書き寄せており、最近では自分の小説「雷桜」が映画になるまでのエピソードや試写会の模様などを載せていた。 映画「雷桜」は今TVでも盛んに宣伝している話題作だ。

さて、表題の本『桜花を見た』は、江戸時代の実在の人物をモデルに書いた五つの中編を載せている。 その中でも『夷酋列像』と題した作品を是非読みたいと、数年前から切望していて、やっとその希がかなった。 

この作品の主人公は、松前藩家老の蠣崎波響(かきざきはきょう)という人物で、キーとなる登場人物は、松前道広(松前藩9代藩主)と大原左金吾(丸山応挙一門の絵師で、雅号は呑響、墨斎)だ。 歴史的出来事のキーワードは、「メナシ・クナシリの戦い(寛政元年1789)」、「松前藩の陸奥の国梁川 への移封 (文化4年1807)」、「松前藩の蝦夷地復領(文政4年1821)」と、私は考えて読了したが、波響の妻となる「かな江」の存在もこの物語に大きな厚みを持たせる結果となっていると思われる。

波響(1763~1826)の母は、松前藩8代藩主資広の側室の自正院文子(和歌の雅号は松前文子)で、彼女の実家は、江戸の長倉屋という松前藩御用達の呉服屋であった。 波響は松前藩9代藩主道広の腹ちがいの弟として子どもの頃から画才を認められ、江戸で絵(長崎画)の勉強をし、その後丸山応挙派の文人・画人と交流を持ち、丸山派の画風として有名になる数多くの作品を世に送り出した。 

波響(広年)が藩政に携わっていた頃、歴史的な出来事として、和人たちの横暴さに耐えかねて寛政元年(1789)に蝦夷人が蜂起した「メナシ・クナシリの戦い」(寛政蝦夷騒動)が起ったが、その鎮圧のために同胞の蝦夷の長老(乙名)達が松前藩に味方し、反乱した蝦夷の降伏に力をかしてくれた。 鎮圧成立を祝って、協力してくれた蝦夷の長老ら80余名を松前城下に招いた時、彼らの身なりが貧しかったので、藩庫に保管されていた蝦夷錦(えぞにしき)の衣装を着せて藩主道広に謁見させた。 

その時の蝦夷の長老ら12人の様子を絵に画いたのが「夷酋列像」です。 波響が一年に及ぶ月日をかけて完成させた作品は、道広はもとより多くの人々に驚きをもって受け入れられた。 つまり絶賛された「画」は、京にまで紹介され 119代光格天皇の天覧も叶い、国中に波響の名声が広まったというわけだ。 

ただこの時、宇江佐さんは、まだ波響の妻となっていない許婚の「かな江」に、「同じ仲間なら、手柄のあった蝦夷はどうして蜂起した蝦夷の命乞いをしなかったのだろう」と言わせている。 勿論そのことは波響を苛立たせるだけだが、12人の列像の中で唯一の女性であるツキノエの妻チキリアシカイには「わたしは一族の長の妻であり・・・いざという時は、長に代って敵と闘わなければならない・・・その敵が息子であっても娘であっても事情は同じです。 この度のことも息子だけを助けるという訳には行きませんでした」と、語らせている。 
チキリアシカイの息子セツハヤフは人質であり、生贄であり、息子の命を以て贖われた収束でもあり、翡翠の耳飾りと首飾りをさせ、こげ茶の蝦夷錦を着せた彼女の表情はこの世のものとも思えぬほど堅い。 もし粉本(下絵)があるならチキリアシカイのものは是非見てみたいものだ。
ここまでが波響の人生のトントン拍子な「楽」の時代であったと言えるのではないだろうか。

波響の人生で「列像」を描いていた頃から、松前藩は蝦夷地へ頻繁に南下してくるロシア国の脅威に脅かされることとなり、そのために藩主をすでに退いていた道広であったが、10代藩主章広の外交相談役として、以前江戸藩邸で風山流の兵学を講義されたことのある大原左金吾(呑響)を京都から招聘し、その外交対策にあたらせようとした。 
実際、ロシアやイギリス船が頻繁に蝦夷地の近海に近づいてくるため、その対応に大変苦慮し始めていたのだった。 すでに波響の人生での「苦難」の時代が始まっていたと言える。

道広に乞われて松前に来たはずの大原呑響(どんきょう)であったが、ロシアの南下政策に対する道広の施策の無さや傲慢さに、またイギリス船の蝦夷地虻田入港をめぐって松前藩の政策に不満を持ち、ついに逃げるように松前を去ってしまった。 彼は江戸へ向かう途中の水戸で、彰考館総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)に会い、松前藩の現状を訴えた。  
翠軒は「墨斎奇談」を著して、幕府に対し松前藩(道広)は外夷内通の意志ありと述べたことから、一連の呑響の行動は松前藩の上知(あげち)の原因をつくったと言われるようになった。

文化4年3月、江戸城から使者が松前に到着し、松前藩の九千石降格と 「陸奥の国伊達郡梁川への移封」が伝えられた。 藩の財政から考えて、約400名の藩士のうち、士分66名・医師4名・足軽70名の士籍を削って梁川に移封することになった。 寄合席から執政に昇格した波響は、いっきに藩の重責を担うこととなってしまったのだ。

その後の波響の半生は、松前藩の復領が叶えられることが自らの使命と考え、そのための資金造りに精をだすことになる。 「夷酋列像」の作者としての彼の名声は、国中の誰もが知っているから、彼の描く「絵画」は、おそらく高額で取引されたことだろう。 波響の絵の代金は、復領を頼む為の賄賂(わいろ)として、将軍家斉の父である一橋治済と側用人の水野出羽守忠成(みずのでわのかみただあきら)の二人に遣われたそうだ。

とうとうそうした波響の十年以上に及ぶ努力の甲斐があって、文政4年12月7日「松前藩の復領」が幕府から発表された。 側用人から老中の座に就いた忠成が幕閣の重職らの了解を得ないで、独断で決めてしまった措置です。 
復領後の波響は、家督を息子の広伴に譲り、文字通り絵三昧の日々を送った。 松前画壇なるものを形成し、後世に伝わる優れた絵師を輩出させたが、波響は復領から5年後の文政9年6月に63歳で没した。

天覧が叶うほどの画才を持った絵師が、売り絵のための「絵」を描いて、自ら執政をしている藩の窮地を救ったという「芸は身を助ける」式の簡単な話ではすまされません。

波響に、妻かな江は無学な女で絵などわかりもしないと言わせる一方で、波響の絵の一番の贔屓者は母上であると息子広伴に言わせ、「かな江が妻でなければ今日の広年はない」と感謝する気持ちをさらりと波響に語らせた宇江佐さんは、この本の最後で「松前応挙と呼ばれ、『夷酋列像』で人々の耳目を集めた波響こと蠣崎将監広年は、その画業もさることながら、一藩の怒涛のごとき運命を自らの才覚で乗り切った能吏でもあった」と結んでいる。 




以上が、『桜花を見た』を読んで感じたことでした。 宇江佐さんの道新夕刊のコラムは終了してしまいました。 エッセイにも読んで楽しい内容がいっぱい詰まっています ヨ

2012年7月13日金曜日

ABCリスク検診


今年の5月に行なわれた「特定健診」の際に、同時に「ABCリスク検診」も行ないました。  その結果は、以前のブログにも載せていますが、ピロリ菌の除菌をした後の群別を載せていなかったので、改めて男女別の結果と合わせて残しておきます。

A群  154人のうち27人の受診者が除菌成功例EA)でした。
B群  66人のうち7人が除菌をうけていたが失敗だった。 男性3、女性4
C群  92人のうち3人が除菌失敗例でした。 男性2、女性1

したがって、今回の集計は                 
                男性   女性
A群   127(39%)   40    87
EA群   27( 8%)   12    15
B群    66(20%)   23    43
C群    92(28%)   32    60
D群    16( 5%)    6    10
となります。

EA群は、除菌が成功するまではピロリ菌が胃の中に生息していたわけだから、「胃がん検診」という観点からはB群に相当として「がん検診」のフォローをしていかなければなりません。

今後は、EA/B/C/D群の胃カメラでの精密検査が必要で、その結果によって来年度以降の検診のフォローの仕方が決まってきます。 効率の良い、体にやさしい検診になっていくことを願っています ヨ

2012年7月11日水曜日

パンダのこと

何に見えます?
「なご美会」熊谷さん
24年ぶりに東京の上野動物園でパンダの赤ちゃんが生まれたというニュースが流れたのはは6日前だったと思います。 7歳のジャイアントパンダ・シンシンが生んだのは雄のパンダで、名前がどうなるかなどとマスコミでも騒がれ始める動きがあっただけに、今日の昼のNHK・TVの臨時ニュースには参った。 今朝の8時30分に赤ちゃんパンダが亡くなったというニュースだったからです。

さて、今日の道新夕刊の「今日の話題」にコラムニストの高山昌行さんが北京に駐在していた2008年当時の記者会見での出来事を、今回のパンダの赤ちゃん誕生に触れながら記事にしています。 

現在、日本と中国との間には、さまざまな懸案問題があり、すべてが良好な関係だとは言えませんが、少なくとも日中国交正常化(1972年)を記念して上野動物園に始めて贈られたパンダは両国間の友好の証しでもありました。

今回も、パンダの貸与がきっかけで赤ちゃんパンダが生まれましたので、友好ムードはいやが上にも高かっただけに・・・今朝のニュースには参った。 

パンダの事については北海道出身の有名人が詳しく、黒柳徹子さんや安住アナウンサー等です。 特に、安住アナウンサーは、パンダの名付けの名前を当てるのを得意としていて、「今回の赤ちゃんパンダの名前はこれだ!」という名前を科学的にすでに引き出していたそうです。 

こうなった以上、その名前を公表してくれるでしょうか?  安住さん ヨ


2012年7月10日火曜日

チロップとは?


昔懐かしの時計やカメラにフィギュアと熊谷さん
以前も「チロップ館」のことは載せましたが、久しぶりに訪れてみると、蒐集して置いてあるものなどはすっかり多彩になっていました。 お年寄りの人達が訪れてくれると、若かった頃のことを鮮明に想い出し、認知についても良い効果があるのではないだろうか・・・?

非薬物療法として、回想法、音楽・絵画・園芸療法などあるが、まさにそれらのことをほとんど体現できるのが「チロップ館」であるともいえます。 本当に是非見に来て、タイムスリップしてください ネ

2012年7月9日月曜日

健康だより第23号

久々の『オガクリ健康だより』です。 

今回は、ロコモの最終回として鍛えるべき筋肉の個所を考え、2つの運動を紹介しています。 開眼片脚立ちスクワットです。

どちらもコツさえつかめば無理なくできる運動ですから継続が大事なことです。


「オガクリ広場の仲間たち」は、このブログの絵手紙にも協力して頂いている福島町の絵手紙の『なご美会』の登場です。

先日、その代表者の熊谷正春さんにお話を伺い、会員数や2年前から続けている75歳以上の患者さんへの「絵手紙通信」のはじまりの経緯などを寄稿していただきましたので載せています。

『チロップ館』のことについては、以前のブログにも取り上げているので記憶に残っている読者もいることと思います。 その時よりも最近の『チロップ館』には素晴らしい品物が所狭しと集められています。 

どうぞ是非お尋ね下さい。 きっと皆さんを懐かしい時代へと導いてくれることでしょう ネ

2012年7月8日日曜日

自然治癒力

「西洋医学の父」と呼ばれる古代ギリシャ時代の医師ヒポクラテスによれば、人の病気を治す基本的な力は、各々に内在している「自然治癒力」だと述べています。 そして、医師の仕事はその「力」を引き出したり、補足したりすることだとも言っています。 

勿論、すでに病気になった患者の治療は医療の手を借りるわけだが、日常の健康維持は本人自らすべきで、医者は助言者でいいんだという話です。 

もっともなことで、こうした考えは岩手医科大学の名誉教授で医学史の研究で有名で、ヒポクラテス研究の第一人者でもある石渡隆司先生も「胃や腸の健全化は、人間の存在の根幹で『腹が決まれば』という言葉があるが、それはまず自分の胃腸が安定していることだ」と説明しています。

超高齢化社会の到来を前に、社会保障費の急増する今だからこそ、「食」を通じた健康管理が大切だとして、「人々が自分の健康維持を丸ごと医療に委ねるようになると、医療費は際限なく膨張し、やがては医療費と介護費で国の経済は破綻する。 そこから起こる悲劇は極めて明らかだ」と断言しています。 

長年にわたり医学史を研究してきた学者の箴言(しんげん)は意味深いものがある・・・ということです。 

さて、4月からスタートしてドラマ部門の視聴率が断然トップなNHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』のなかでも、町医者として好演している坂田医院の世良公則先生は、主人公の梅ちゃん先生(堀北真希)「医者はただ傍に居るだけでいいんだよ・・・」という言葉をかけていました。 

その言葉の持つ意味を悟った梅ちゃん先生は、大学病院を辞め、戦後まもなくの医者の少ない東京の蒲田地区で開業する決意をし、実現するところまでが先週の話でした。 これからドラマがどう展開していくのか興味深々というわけで、朝の時間のやり繰りに困っている毎日です ネ




2012年7月5日木曜日

ヒッグス粒子

「向日葵の会」圭子さん
世紀の大発見とか金メダルに相当する発見とか、昨日からの科学関係のニュースでは大騒ぎな話題が「ヒッグス粒子」のことです。

宇宙の成り立ちや銀河系の誕生の解明に役立つとか説明を聞いても今ひとつピンときませんが・・・。

1964年イギリスピーター・ヒッグスさんがその存在を予言した素粒子で、私たちの身の周りも含め、すべての宇宙空間を満たしていて、もしこの素粒子が存在しなければ宇宙を構成するすべての星や生命が生まれてこないことになることから「神の粒子」ともよばれているそうです。


ヒッグス粒子の担う大きな役割は、物質に「重さ」を与えることです。 

宇宙誕生の時の大爆発で生み出された大量の素粒子は、その際自由に飛び回っていたが、たくさんのヒッグス粒子にぶつかることで動きづらくなり、やがて物質を構成していったと物理学の分野では考えられていて、その動きにくさが質量そのものだとしています。

ヒッグス粒子はパーティー会場にも例えられるそうです。 会場の大勢の人たちがヒッグス粒子で、その人波の中を人気アイドルが通り過ぎようとすると、たちまち多くの人にまとわりつかれて動きづらくなってしまいので、この動きづらさが「質量・重さ」だと言うのです。

宇宙は17の素粒子から成り立つという現代物理の標準理論からすると、今までクォークレプトンなど16の素粒子が実験で確認されていましたから、今回の99.9999%の確率で確認されたヒッグス粒子は最後のひとつだということです。 日本からは東大の先生方など数多く参加し、実験していたそうです。

さて今年は、今月28日からイギリス「オリンピック」が開催されます。 1964年は、アジアで初めて東京でオリンピックが行われた年です。 何となく因縁めいたものを感じるのはわたしだけでしょう カ



2012年7月1日日曜日

節電

「なご美会」池田さん
今朝の新聞の折り込みにビックリしました。 今月から始まる”節電と計画停電”の日程表が入っていたからです。

節電については7%という数字を覚悟していたものの、計画停電については左程気にしていなかった自分が情けなかった。 昨年、関東地域で大々的に実施され、それに関するトラブルなどをニュースで見ていたものだが、はたしてその計画が北海道でも行なわれると知って、改めて電力不足のことを真剣に考えねば・・・と思っている。

先月開催された道医師会の会議でも道からの担当者が来て「節電と計画停電」についての説明があったが、その時はまだ計画の予定段階ということで在宅患者で人工呼吸器や在宅酸素を使用している実態調査をした結果等を説明したという段階でした。 

その後、地域の保健所からの電気機器を使用している在宅患者のアンケート調査があり、そうした調査を踏まえて今回の停電計画の発表となったようです。

渡島地域の病院・診療所などは函館を中心に存在しているのが実情で、計画停電はそうした病院のある地域を除いて実施されるようです。 ですから、函館市はほぼ全域が計画外になるでしょうし、木古内町、松前町もj計画外です。

となると、福島町計画内に入っていますから、停電が実施されれば診療はできないという事態になります。 診療所でも検査から会計事務処理まで全てコンピューターの時代ですから、停電になるとお手上げ状態になってしまいます。


あーあー、何と言うことでしょうか。 私たちの日常生活はほぼ全てが電気無しでは成り立たなくなっているんですね。 今からでも遅くないと思いますから真剣にエネルギー政策のことを考えねばならないです ネ