2010年10月31日日曜日

糖尿病講演会

今日の午後、日曜日ですが町福祉センターに大勢の聴衆を集めて「糖尿病講演会」が行われました。 北海道健康づくり財団渡島保健所と当町が主催となり、渡島医師会も後援に一役かいました。

講師の先生方は、函館市の高橋清仁クリニックの院長、函館中央病院の石井正孝健康管理副センター長と渡邊看護師長さん、安野管理栄養士さんの4名です。 スライドの話の内容は、やさしく・解りやすくまとめて説明してあり、2時間の講演時間がアッと言う間にすぎてしまった感じでした。

糖尿病は年々増え続け、予備軍も含めると2千万人を超す勢いという状況で、生活習慣病の中でも特に厳しく注意・指導がなされなければならないものです。

日常生活で気をつけること、食事のことの他に糖尿病の怖い合併症の話まで、全部まとめて一遍に聞いて勉強できる機会は中々ありませんから、今日の講演企画は本当に良かったと思います。
講演準備をする高橋先生


さて、夜の「NHK特集」は、認知症の話題を放送してました。 最近では、認知症に対する認識も大分変って来て、治る・症状の改善するケースも増えてきているそうです。 

なかでも、アルツハイマー型認知症では、血圧や糖尿(病)のコントロールをすることによって、症状が改善するという研究結果が出始めて患者家族の介護の軽減に繋がっている、という放送内容でした。 少しは希望が持てるということでしょう。

本日の講演やNHK特集でも強調されたことですが、改めて「生活習慣の是正が病気の進行を遅らせる」という事実があることを忘れてはなりません。 その意味でも、今日会場に来て下さった方々が、今日の講演の内容を友人・家族に話してあげることが町民みんなの健康意識を高め、予防にもおおいに努めてくれるものと信じています ヨ


文化祭

まつまえ「向日葵の会」
まつまえ「向日葵の会」
まつまえ「向日葵の会」
10月最後の日曜日、松前町で「第37回 松前町文化祭」が町民総合センターで行われていましたので、行ってみました。

じつは、「向日葵の会」の絵手紙コーナーに、わたしの作品をだしていたからです。 
行ってみると、体育館いっぱいに作品が展示されていました。 どれも力作・傑作ばかりと感動です。 

来月は、福島町でも13日・14日の両日文化祭が行われる予定です。 みなさんの努力の成果が発表されることでしょう ネ

(すばらしい盆栽の出品もありました。 後日、載せます。)
大橋政義さんの作品
まつまえ「向日葵の会」の会員

2010年10月30日土曜日

箱館奉行所

丁度3ヵ月前の7月29日に「箱館奉行所」の復元がなり、一般市民に公開されました。 
140年の時を超えて再現されたことになります。

鎖国を続けていた日本は、安政元年(1854)の日米和親条約によって箱館と下田を開港した。 当初、箱館山の麓に幕府の役所として箱館奉行所を置いていたが、防備に問題があると言う理由で、幕府は港から遠く離れた亀田の地に奉行所を建てることになった。 
設計を蘭学者の武田斐三郎に依頼したところ、星型五角形の形をした西洋式の土塁を考案したため、「五稜郭」と呼ばれるようになった。

安政4年(1857)に五稜郭の築造が始まり、7年の歳月をかけて完成されました。 が、時代は風雲急を告げ、江戸幕府から明治政府へと政権が変わったため、箱館奉行所の役目も終わり、完成から7年後の明治4年(1871)に開拓使によって解体されてしまった。

今回復元された奉行所は、全国から宮大工を集め、4年の歳月をかけて完成されたもので、室内を見て回ると足元の畳みがポッカポカの床暖が効いていて、今のひんやりする季節にはとても気持ちが良いもんです。 オープン50日目にして、10万人の入場者を集めたというのも、日本人は歴史好きだからでしょうか。

今日一緒に奉行所を見学した友人は、高校の同級生で約25年ぶりに再会したT.F君です。 埼玉県からひょっこり函館へ出かけてきたと、昨夜突然電話があった。 びっくりするやらなにやらだったが、でも今日再会し、お互いの友情を確認でき、しかも早く見たいと思っていた復元奉行所をくまなく見れたことにも大変満足している。 

彼の息子さんが、来週の土曜日に結婚する予定です。 花嫁の父ではないので、感激の号泣はないとは思うが、両家の代表挨拶が彼を少々悩ますことになるのでしょう カ

2010年10月27日水曜日

パウル君

ドイツの水族館で飼われていた、あの「タコ」が死んだ。 
名前は「パウル」、2歳9カ月の寿命だった。 

今年の6月11日から7月11日まで、南アフリカ共和国で南半球では初めての「2010FIFAワールドカップ」が行われた。 第19回目のW杯サッカー大会で、日本は戦前の予想に反して、予選を勝ち抜き決勝トーナメントまで進出し、南米パラグアイにPK戦(5対3)の末に敗退するという惜しい試合を経験した。 それによって一躍岡田監督の人気がおおいに高まり、「岡ちゃん」人気にも火がついた。 

今大会で注目度No.1は、誰が何と言っても占いするタコの「パウル君」でした。 自国のドイツの試合は、予選・決勝リーグの6戦とも「勝ち」の選択をしすべて当たった。 期待は決勝戦に勝ち進んだドイツとスペイン戦の占いに集まった。

決勝戦の「パウル君」の占いの答えは、「スペインの勝ち」という結果をだした。 自国のドイツという占い結果を出さなかったため、一時生命の危険に曝されることとなったパウル君だが、実際の試合は1-0でスペインが勝ったため、予想が的中した「パウル君」人気は最高潮に達しました。

結局、7戦を予想し全て正解という快挙を成し遂げたのです。 

何か仕掛けがあるのか、何らかの科学的な理由があるのかも知れませんが、何も詮索しなくともいいのではないだろうか。 理由が解らないことがかえって色々想像されて良いでしょう ネ

2010年10月26日火曜日

ラストコール

「なご美会」竹下弘子
福島グリーンクラブ(ゴルフクラブ)」の今年最後の例会が、今月24日の日曜日に大沼国際カントリークラブ(C.C)で行われた。 晴れの天気でしたが、風が強く、会員選手達を悩ませましたものの、雨に降られなかっただけでも良かった。 

シーズン終盤ですから、スコアの良い人とそうでない人の差が大きく出てしまいます。 春からシッカリ体力をつけ、ラウンドしてきた人は調子が良かったようです。 日曜ゴルファーですから、前半のスコアが良くっても、休憩後の後半には、練習の程度によって差が大きくでてきます。 私も、最終ホールで、10打をたたく大トラブルを起こしてしまいました。 ホールインワンをした年だったが、その後五十肩の痛みに悩まされて、ラウンド数が少なかったことが響いていると思います・・・。 

夜は、町内の飲食店に場所を移して、表彰式と懇親をかねた納会を行いました。 恒例の「ペーパーゴルフ」では、大いに盛り上がり、会員が持ちよったラッキー賞のくじ引きに一喜一憂し、遅くまで笑い声が絶えませんでした。 

来年も良いゴルフが出来ますよう、体力を付けなきゃ ネ

2010年10月22日金曜日

一勝の重み

松前「向日葵会」


今日の一勝は大きい。                                      やっとの思いで勝ちを拾うことが出きたと言うべきか。 崖っぷちの巨人には、応援するファンも毎日がハラハラどきどきだ。 スリリングなクライマックスシリーズ(CS)と言える。  出来るだけしっかりがんばって欲しいものだ。  原ジャイアンツ ヨ         
                                






2010年10月20日水曜日

セリーグCS

「なご美会」熊谷正春
プロ野球パ・リーグのクライマックスシリーズ(CS)は、結局「千葉マリーンズ」のロッテがシリーズの逆転劇でチャンピオンとなった。 「福岡ソフトバンク・フォークス」に競り勝ち、日本シリーズへの切符を手にしました。

「フォークス」は、王監督が指揮をとっている時の「福岡ダイエー・フォークス」時代の1999年に、リーグ・チャンピオンも、日本一にもなっている。 さらにリーグ優勝2連覇をした2000年は、セ・リーグ覇者の長島監督率いる読売巨人との一騎打ちとなり、「O・N]の日本シリーズ決戦と言われ、大いに盛り上がったものだ。 戦績は、王監督には残念だが、2連勝のあと4連敗し、長島監督の勝利でシリーズは終わった。

その後、現在の「福岡ソフトバンク・フォークス」となり、王監督のあと秋山監督がチームをまとめ、2010年度のリーグ優勝をした。 が、はじめにも書いたように「千葉マリーンズ」の西村監督(一年目)に逆転負けをしてしまった。

さて、今夜のセ・リーグのCSは、どんな結果となるかし ラ

2010年10月19日火曜日

海外旅行

今日は「海外旅行の日」という記念日です。


遠(10)くへ行く(19)の語呂合わせだそうで、海外旅行の楽しみ方などについて考える一日です。


ただ考えるのではなく、旅行するなら円高が続いている、今がチャンスでしょう  カ







2010年10月17日日曜日

日本オープンゴルフ

「なご美会」熊谷正春
今年は75回目の大会で、今月14日から愛知カンツリー倶楽部で熱戦が繰り広げられている。

第3日を終わって、首位はプロの藤田寛之で10アンダーです。 そして、アマチュアの松山英樹(東北福祉大1年)が7アンダーで単独4位につけているという興味ある途中結果となっている。

この大会は、1927年にスタートし、日本のゴルフ大会のメジャー4戦のうちの一つに数えられていて、初回の優勝者は「赤星六郎」です。 彼は、プロ入りせず、アマチュアとして初代チャンピオンになった。 彼は、米国留学中にゴルフを習得し、日本人として初めて海外トーナメント(1924年)でも優勝し、近代日本ゴルフ界の礎を築いた大功労者と言われています。

世界的なゴルフ界のアマ選手と言えば、ボビー・ジョーンズです。 終生アマチュアとしてゴルフ活動を行い、28歳の時に年間グランドスラム(全米アマ、全英アマ、全米オープン及び全英オープン大会の優勝)を達成したことで有名で、引退後もゴルフにかかわり、「マスターズ・トーナメント」を創設し、その開催コースとして、オーガスタのゴルフクラブのコース設計にも携わったといいます。

今回、もしアマの松山選手が優勝すると、赤星さん以来83年ぶりとなる快挙です。 彼はもうすでに来年の4月、アトランタでの「マスターズ・トーナメント」に招待されています。 ボビーの設計したメジャー大会に19歳で出場できるというのも何かの縁でしょうか ナ

追記; 松山選手は最終日も健闘して、3位に入賞した。 アマチュアとしては、1985年度の当時アマだった片山晋吾以来の上位入賞で、今後の活躍が大いに期待されます。)

2010年10月14日木曜日

カリンとマルメロどっち












今年もいい収穫があったからと届けてくれたが、うっかり名前を確認することを忘れてしまった。

カリンorマルメロ?  今度は、もう少し色づきだしてから頂けないかしら・・・ニオイもするようになってから ネ 
YouTube 「地球に恋する動画」いかが)

2010年10月13日水曜日

世界最長トンネル

「なご美会」熊谷正春
今月11日の新聞に、世界最長のトンネルの話が載っていた。 スイス・アルプスを貫き、およそ57Kmの鉄道トンネル(ブッタルドトンネル)の貫通式が15日に行われるということです。

今までは、「わが町」の青函トンネル53.85Kmで、世界一の記録を持っていた。 本坑が貫通したのは1985年でしたから、25年ぶりの快挙ということです。
「わが町の」と言ったが、当時青函トンネル工事をしていた時の「基地の街 福島」だったというだけですが・・・。

新しい最長トンネルは、総工費97億スイスフランと言いますから、日本円にして約8240億円となる。なんて大規模な事業なんだろうか。 1990年代に5カ所から同時に掘削作業を始めて、2015年にはスイス最大都市チューリヒからイタリアのミラノまで開通する予定で、最高時速が250Kmまで可能と言われ、現在より約一時間鉄道の旅が縮まる模様だ。 

ちなみに、青函トンネルの通過所要時間は、特急で約40分です。 ただ真っ暗いだけの空間です ガ

2010年10月11日月曜日

シクシピリカ

今日は良い天気ですね」というアイヌ語です。 体育の日の今日は、本当に良い天気です。

普段の運動不足を解消するため、戸外に出ます。 まずは、ドライブです ネ


ところで、このアイヌ語は、先日読んだ宇江佐真理の著「桜花を見た」の中の最上徳内を主人公にした『シクシピリカ』からのものです。 

羽州西村山郡谷地村(現在 河北町)の生まれで、村の煙草屋に奉公していた元吉という18歳の青年が、天文や算学などを習って、向学心のあるところを見込まれて江戸に出ることができた。 勉学は順調とは言えなかったが、持ち前の頑張りで、友人・知人をおおくつくり本田三郎右衛門利明(ほんださぶろうえもんとしあき)を師とすることができた。 本田は音羽に私塾を構え、数学・天文・地理・測量術を指南し、「北夷先生」呼ばれるほど蝦夷地の事情通でもあったそうだ。

元吉は良く勉学し、蝦夷(アイヌ)に米作りを指南したいという希を持って暮していた。

その頃、北方問題(ロシアの南下政策)が幕府内で取りざたされるようになり、松前藩が治めている蝦夷地の調査の計画が持ち上がった。 五人の蝦夷地見聞隊が組織され、青島俊蔵と共に昵懇の間柄の本田利明も選ばれたが、病の本田はかわりに元吉を推薦した。

その時初めて、元吉は「最上徳内」という故郷に因んだ名をつけ、百姓の倅から足軽分の武士の仲間入りを果たした。 それは天明5年(1785)、徳内の第1回目の蝦夷地渡海の時だった。

その後、9回に及ぶ蝦夷地渡海を果たすことになる。 東方の蝦夷地で起きた蝦夷の反乱「メナシ・クナシリの戦い」や、ロシアの南下による脅威に対抗するため、一時蝦夷島が幕府直轄となり、松前藩が陸奥の国梁川へ移封され、また14年後に復領となるという蝦夷地の多難な年代に度々渡海し活躍した。 
蝦夷と親交を深め、米作り・畑作りを教えるという初期の目標も達成し、同年代の蠣崎波響が亡くなった文政9年には、72歳という年齢ながら、江戸に来ていたシーボルトに自分の仕事を託したいと面会を求める意欲を持ち合わせてもいたと、宇江佐真理さんは目を細めて書き終えている。

シクシピリカ(ええ天気だはげゃ)は、徳内が白髪混じりの髪に髭の長い蝦夷の老人とたまたま一緒に登別の露天風呂に入った時に聞いた。 あいさつ語としては、とてもいいコトバだ ネ

2010年10月9日土曜日

桜花を見た

「夷酋列像」イトコイ厚岸の長老
(ツキノエの息子。蜂起したセツハヤフは弟)
 宇江佐真理さんの著「桜花を見た」を知人から借りて読んだ。 本の題名は「さくらをみた」となっている。 初版が2004年だから、本を手にして読むまでに随分と年数がかかったものだ。
 宇江佐さんは、函館市出身で、私と同じ高校の一年先輩の女流作家です。 道新の夕刊に不定期のようだが投稿記事(ウェザーリポート)を書いている。 作家の山本一力さんらと親交のあることなど、身の周りに起きたその時々のことを書き寄せており、最近では自分の小説「雷桜」が映画になるまでのエピソードや試写会の模様などを載せていた。 映画「雷桜」は今TVでも盛んに宣伝している話題作だ。

さて、表題の本「桜花を見た」は、江戸時代の実在の人物をモデルに書いた五つの中編を載せている。 その中でも『夷酋列像』と題した作品を是非読みたいと、数年前から切望していて、やっとその希がかなった。 
この作品の主人公は、松前藩家老の蠣崎波響(かきざきはきょう)という人物で、キーとなる登場人物は、松前道広(松前藩9代藩主)と大原左金吾(丸山応挙一門の絵師で、雅号は呑響、墨斎)だ。 

歴史的出来事のキーワードは「メナシ・クナシリの戦い(寛政元年1789)」、「松前藩の陸奥の国梁川への移封(文化4年1807)」、「松前藩の蝦夷地復領(文政4年1821)」と、私は考えて読了したが、波響の妻となる「かな江」の存在もこの物語に大きな厚みを持たせて書かれている。 

波響(1763~1826)の母は、松前藩8代藩主資広の側室の自正院文子(和歌の雅号は松前文子)で、彼女の実家は、江戸の長倉屋という松前藩御用達の呉服屋であった。 波響は松前藩9代藩主道広の腹ちがいの弟として子どもの頃から画才を認められ、江戸で絵(長崎画)の勉強をし、その後丸山応挙派の文人・画人と交流を持ち、丸山派の画風として有名になる数多くの作品を世に送り出した。 

波響(広年)が藩政に携わっていた頃、歴史的な出来事として、和人たちの横暴さに耐えかねて寛政元年(1789)に蝦夷人が蜂起した「メナシ・クナシリの戦い」(寛政蝦夷騒動)が起ったが、その鎮圧のために同胞の蝦夷の長老(乙名)達が松前藩に味方し、反乱した蝦夷の降伏に力をかしてくれた。 鎮圧成立を祝って、協力してくれた蝦夷の長老ら80余名を松前城下に招いた時、彼らの身なりが貧しかったので、藩庫に保管されていた蝦夷錦(えぞにしき)の衣装を着せて藩主道広に謁見させた。

その時の蝦夷の長老ら12人の様子を絵に画いたのが「夷酋列像」です。 波響が一年に及ぶ月日をかけて完成させた作品は、道広はもとより多くの人々に驚きをもって受け入れられた。 つまり絶賛された「画」は、京にまで紹介され 119代光格天皇の天覧も叶い、国中に波響の名声が広まったというわけだ。

ただこの時、宇江佐さんは、まだ波響の妻となっていない許婚の「かな江」に、「同じ仲間なら、手柄のあった蝦夷はどうして蜂起した蝦夷の命乞いをしなかったのだろう」と言わせている。 
勿論そのことは波響を苛立たせるだけだが、12人の列像の中で唯一の女性であるツキノエの妻チキリアシカイには「わたしは一族の長の妻であり・・・いざという時は、長に代って敵と闘わなければならない・・・その敵が息子であっても娘であっても事情は同じです。この度のことも息子だけを助けるという訳には行きませんでした」と、語らせている。 
蜂起の首謀者マメキリと行動を共にしたチキリアシカイの息子セツハヤフは人質であり、生にえであり、反乱の鎮圧は彼女の息子の命を以てあがなわれた収束でもあり、翡翠の耳飾りと首飾りをさせ、こげ茶の蝦夷錦(十徳)を着せられた彼女の表情はこの世のものとも思えぬほど堅い。

ここまでは波響の人生の中でトントン拍子な「栄光」の時代であったと言えるだろうか。
しかし、波響の人生で、「列像」を描いていた頃から、蝦夷地へ頻繁に南下してくるロシア国の脅威に松前藩が脅かされることになり、そのために藩主をすでに退いていた道広であったが、10代藩主章広の外交相談役として、以前江戸藩邸で風山流の兵学を講義されたことがある大原左金吾(呑響)を京都から招聘し、その外交政策にあたろうとした。
実際、ロシアやイギリス船が頻繁に蝦夷地の近海に近づいてくるため、その対応に大変苦慮していたのだった。 
すでに波響の人生での「苦難」の時代が始まっていたと言える。

道広に乞われて松前に来たはずの大原呑響(どんきょう)であったが、ロシアの南下政策に対する道広の施策の無さや傲慢さに、またイギリス船の蝦夷地虻田入港をめぐって松前藩の政策に不満を持ち、ついに逃げるように松前を去ってしまった。 
彼は江戸へ向かう途中の水戸で、彰考館総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)に会い、松前藩の現状を訴えた。  翠軒は「墨斎奇談」を著して、幕府に対し松前藩(道広)は外夷内通の意志ありと述べたことから、一連の呑響の行動は松前藩の上知(あげち)の原因をつくったと言われるようになった。

文化4年3月、江戸城から使者が松前に到着し、松前藩の九千石降格と 「陸奥の国伊達郡梁川への移封」が伝えられた。 藩の財政から考えて、約400名の藩士のうち、士分66名・医師4名・足軽70名の士籍を削って梁川に移封することになった。 寄合席から執政に昇格した波響は、いっきに藩の重責を担うこととなってしまったのだ。

その後の波響の半生は、松前藩の復領が叶えられることが自らの使命と考え、そのための資金造りに精をだすことになる。 「夷酋列像」の作者としての彼の名声は、国中の誰もが知っているから、彼の描く「絵画」は、おそらく高額で取引されたことだろう。 波響の絵の代金は、復領を頼む為の賄賂(わいろ)として、将軍家斉の父である一橋治済と側用人の水野出羽守忠成(みずのでわのかみただあきら)の二人に遣われたそうだ。

とうとうそうした波響の十年以上に及ぶ努力の甲斐があって、文政4年12月7日「松前藩の復領」が幕府から発表された。 側用人から老中の座に就いた忠成が幕閣の重職らの了解を得ないで、独断で決めてしまった措置です。
 
復領後の波響は、家督を息子の広伴に譲り、文字通り絵三昧の日々を送った。 松前画壇なるものを形成し、後世に伝わる優れた絵師を輩出させたが、波響は復領から5年後の文政9年6月に63歳で没した。

天覧が叶うほどの画才を持った絵師が、売り絵のための「絵」を描いて、自ら執政をしている藩の窮地を救ったという「芸は身を助ける」式の簡単な話ではすまされません。

波響に、妻かな江は無学な女で絵などわかりもしないと言わせる一方で、波響の絵の一番の贔屓者は母上であると息子広伴に言わせ、「かな江が妻でなければ今日の広年はない」と感謝する気持ちをさらりと波響に語らせた宇江佐さんは、この本の最後で「松前応挙と呼ばれ、『夷酋列像』で人々の耳目を集めた波響こと蠣崎将監広年は、その画業もさることながら、一藩の怒涛のごとき運命を自らの才覚で乗り切った能吏でもあった」と結んでいる。

現代にも通ずる話のようでもあり、歴史は繰り返すとはよくいったものです ネ

2010年10月7日木曜日

虎の尾

松前「向日葵の会」佐藤京子

サンセベリアという名は知らなかったが、よく室内にある鉢植えの観葉植物として目にします。 「オガクリ」の待合室にも、玄関棚にも置いてあります。 
サンセベリア(Sansevieria)は、18世紀イタリアのサンセビエロという王子の名前にちなんだものだそうで、アフリカ原産でマイナスイオンを出すことで有名です。お部屋をきれいにしてくれるので、たくさんの鉢を置いた方が良いでしょう。
葉っぱは先端が尖っていて、横しま模様があることから虎のしっぽに似ているといわれ、別名「虎の尾」とも言います。 
花が咲いたところを見たことがなかったが、松前の佐藤さんから「花が咲いた虎の尾」の絵手紙を見せられました。 
何か良いことがあるといいです ネ

2010年10月5日火曜日

出てきた指輪

今朝の道新の「いずみ」欄に表題の投稿記事が載っていました。

“指輪”という漢字を見て、その記事を読んでみると、3歳の娘と1歳の息子を持つ34歳のお母さんが、二度目の指輪行方不明事件を起こした時の話の内容です。 
一度目は台所のゴム手袋の中にあるのを夫が見つけてくれたが、今回は外出先で指輪が左手薬指に無いことに気がつき、立ち寄った場所など散々探したが、結局見つからなかったという事態に、自然と涙がでてきて落胆した模様を、夫からの「また新しいのを買ってあげるから」という優しい言葉や、娘からの励ましの言葉に勇気づけられたりして、娘の成長した一面を感じたという思いなどを絡めて綴っています。 その時の心模様が、とても良く書けていると感心して読みました。

さて、もう無くしたものと諦めて、夕飯の支度をして炊飯器からご飯をよそおうと中を見ると、光るものが見えてビックリです。 何と無くなったはずの「指輪」と一緒に、ごはんを焚いていたというわけです。 「結婚指輪の炊き込みご飯」ができたと、夫がなぐさめてくれ、それからは「指輪」は中指にはめているというハッピーエンドのお話でした。

朝の読み物としては、とても爽やかな良い内容だと思っていると、なんだか少し意地悪な気も沸いてきました。

というのも、新婚当初、薬指にピッタリ収まっていた「指輪」が、二人の子供を出産したら、簡単に薬指からすり抜けて、落としても気がつかないでいる状況になっているということです。 たぶん体重が減ってヤセてきた証拠でしょうし、育児・子育てで自分のことをあまり振り返っている余裕もないことが推測されるからです。 それほど育児・子育てはたいへんなことなんです・・・。 

今年、大阪で二児の小さな子供たちが母親の育児放棄によって亡くなっていたという報道を耳にした時、信じられませんでした。 離婚という事態になったことも不幸の始まりだったわけで、大人の我儘な理由が子供たちに押し付けられたのです。 

でも、そんなことは稀なことであって、結婚指輪が薬指でクルクル回ることなんて、ちっとも苦なんかじゃないですよ ネ

2010年10月1日金曜日

神無月

今日から「神無月」です。

最近は、めっきり寒い朝夕で、北の方から紅葉の便りも聞かれるようになり、8~9月の暑い季節が恋しく感じられます。

と言っても、四季のある日本は、秋は秋で楽しみがいっぱいあります。 紅葉狩りはもちろん、食べものも豊富に出回り、お酒・ワインも美味しく味わえる季節と言えます。 

今年のソバの出来具合も気になるところです ネ