2010年10月11日月曜日

シクシピリカ

今日は良い天気ですね」というアイヌ語です。 体育の日の今日は、本当に良い天気です。

普段の運動不足を解消するため、戸外に出ます。 まずは、ドライブです ネ


ところで、このアイヌ語は、先日読んだ宇江佐真理の著「桜花を見た」の中の最上徳内を主人公にした『シクシピリカ』からのものです。 

羽州西村山郡谷地村(現在 河北町)の生まれで、村の煙草屋に奉公していた元吉という18歳の青年が、天文や算学などを習って、向学心のあるところを見込まれて江戸に出ることができた。 勉学は順調とは言えなかったが、持ち前の頑張りで、友人・知人をおおくつくり本田三郎右衛門利明(ほんださぶろうえもんとしあき)を師とすることができた。 本田は音羽に私塾を構え、数学・天文・地理・測量術を指南し、「北夷先生」呼ばれるほど蝦夷地の事情通でもあったそうだ。

元吉は良く勉学し、蝦夷(アイヌ)に米作りを指南したいという希を持って暮していた。

その頃、北方問題(ロシアの南下政策)が幕府内で取りざたされるようになり、松前藩が治めている蝦夷地の調査の計画が持ち上がった。 五人の蝦夷地見聞隊が組織され、青島俊蔵と共に昵懇の間柄の本田利明も選ばれたが、病の本田はかわりに元吉を推薦した。

その時初めて、元吉は「最上徳内」という故郷に因んだ名をつけ、百姓の倅から足軽分の武士の仲間入りを果たした。 それは天明5年(1785)、徳内の第1回目の蝦夷地渡海の時だった。

その後、9回に及ぶ蝦夷地渡海を果たすことになる。 東方の蝦夷地で起きた蝦夷の反乱「メナシ・クナシリの戦い」や、ロシアの南下による脅威に対抗するため、一時蝦夷島が幕府直轄となり、松前藩が陸奥の国梁川へ移封され、また14年後に復領となるという蝦夷地の多難な年代に度々渡海し活躍した。 
蝦夷と親交を深め、米作り・畑作りを教えるという初期の目標も達成し、同年代の蠣崎波響が亡くなった文政9年には、72歳という年齢ながら、江戸に来ていたシーボルトに自分の仕事を託したいと面会を求める意欲を持ち合わせてもいたと、宇江佐真理さんは目を細めて書き終えている。

シクシピリカ(ええ天気だはげゃ)は、徳内が白髪混じりの髪に髭の長い蝦夷の老人とたまたま一緒に登別の露天風呂に入った時に聞いた。 あいさつ語としては、とてもいいコトバだ ネ