2011年8月6日土曜日

涌元出土古銭(2)

「はんどくん」で解明された開泰元寶
三人目の講師は、専修大学の三宅俊彦先生で「涌元出土古銭の謎に挑む パート3」というお話です。 サブタイトルが、-本邦初出土のベトナム古銭『開泰元寶』についてーというものですから、夕食も食べずに知内へ向かったんです。

今回初めて古銭の話を聴講したわけだが、謎解きのような面白さがありますね。 
知内でベトナム古銭がみつかったと言うことは、そこまで流通してくるルートというものがあるわけで、北方(サハリン経由)からのルートが否定的だと考えられるところから,南周りルート(本州)、つまり他の日本国内の土地から廻ってきたことになり、必ず日本のどこかに存在しなければならないことになります。 と、推理し、パソコン検索したら、

実は、開泰元寳はコイン商で売買されています。 伝世銭としてマーケットに出てくるそうです。 家宝を売却したもの、蔵を整理したときに発見したもの、コレクターがベトナムで購入して国内に持ち込んだもの、コレクションを放出したもの等があるそうです。それなりに高価な古銭で、マーケットに出ることはほとんどないそうです という文章が載っていました。 やはりと言うべきでしょうか。

交易の代価としての通貨(銭)ですから、いつも見慣れて使いなれている銭は安心できるが、見たこともない銭は、ニセ銭かまがい物かと疑うのが普通ではないでしょうか。 その後の出土古銭で国内最大と言われる函館の志濃里(海苔)古銭(374,436枚)や新潟県越後湯沢の石白古銭(271,683枚)でも知内と同じものは見つかっていません。 ほんとうに不思議な話だと思います。 

その点について、三宅先生の話では、ベトナム銭といっても、実際は自国産はきわめて少なく、中国(宋、明などの年代)で造られていたものらしく、貨幣本来の役目を担うには、流通量が少なすぎるという解説です。 貴重品だったから、ひょっとするとプレミアがつくほどのものだったというのだろうか? おそらく、函館高専の『はんどくん』を用いて再調査すれば何枚かは見つかるのでは・・・。
講演する三宅俊彦先生

さて、わたしは別の点に注目してみました。 同じ新聞記事によると、涌元出土古銭のなかにもう一種類のベトナム古銭「景統通寶」が発見されたということです。 「景統通寶」は、1498年-1504年の鋳造となります。 いままでは、中国・明の「宣徳通寶」(1433年)が最も新しいもの(最新銭)と考えられていました。 埋蔵された年代を特定する根拠として、出土古銭の一番あたらしい古銭(最新銭)の年代を起点に考えるそうです。従って、1433年の宣徳通寶の場合と、1498年の景統通寶では埋られた年代が今までより65年も新しいことになります。  

ということは、『コシャマインの乱』が起きたのは長禄元年(1457)で、アイヌに攻められた脇本館は簡単に陥落してしまいました。 戦いに敗れた館主の南條(季継)一族はじめ、和人の多くは他の土地への避難・逃亡を余儀なくされたことでしょう。その際、交易に必要不可欠ではあるが、再度戻ってきた時に使えるようにと、今回研究されている通貨(銭)を漆塗りの四角い籠に詰め込んで埋めたと考えても良いのではないだろうか。 

しかし、その埋蔵がコシャマインの乱の時とすると、最新銭(景統通寶)との年代が合いません。 それより凡そ50年ほど経ってから埋蔵した計算になるからです。 歴史上は、コシャマインの乱後も脇本館は復活し、和人がそこで生活していなければ話が合いません。

年表を見ていますと、永正9年(1512)の「ショヤ・コウジ兄弟の戦い」という出来事があって、再び脇本館が陥落したという事実が判明しました。 東部アイヌの首長の庶野・匐時(コウジ)兄弟が蜂起し、志海苔館、箱館は彼らアイヌ軍に占拠され、志濃里や宇須岸あたりは100余年間に渡って荒廃したと考えられていることから、脇本館も例外ではなかったと思われます。  なぜなら、翌年の永正10年(1513)ショヤ・コウジは大館(松前)をも攻撃し、館主の相原季胤、副館主の村上正儀の両名を自害させ、大館を落城させてしまったからです。 それほど、その兄弟は強かったのです。

従って、その出来事のあった頃に今研究されている通貨が埋められたと考えますと歴史上の年代が一致することになります。 たぶん、おもだった館(箱館、志海苔、与倉前、穏内)は陥落し、そののち和人経済の中心は上之国や松前へ移っていったと考えられます。 


その松前の大館は空城となっていたが、永正11年(1514)上ノ国館の蠣崎光広・義広の夫子が突然上ノ国のから移ってきて、大館を改修し徳山館と改名して本拠地とした。 あまりにも出来すぎた転居のため、前年のショヤ・コウジの蝦夷蜂起は、蠣崎光広が大館欲しさのあまり蝦夷軍に大館を攻撃させたのではないかという陰謀説まででています。


ここで、南條家蠣崎家(松前家)の関係をおさらいしておきましょう。 南條家は、初代南條季継のあと、光継、廣継と代を重ねていきます。 蠣崎家は、一世蠣崎信廣のあと、光廣、義廣、季廣、慶廣(初代藩主)と続き、松前と名を改め、以後明治元年の13代徳廣(のりひろ)まで存続しました。 

両家の交わりは、南條家3代廣継が、蠣崎家4世季廣の娘と結婚したことに始まります。 

その縁で、1521年に幼くして上ノ国の勝山館を継いだ蠣崎基廣は南條廣継のもとで育てられることになります。 1548年、待遇に不満を持った基廣が謀反を起こしたとされ、季廣によって討伐されます。 そのあとの勝山館の館主に南條廣継がなります。 

こうなると、大館の館主の4世季廣の跡目を巡って色々な謀略が起きます。 なんとしても夫・南條廣継を蠣崎家の家督後継者にと願うあまり、廣継の妻は実の弟達(季廣の長男、二男)を相次いで毒殺してしまいます。 勿論、この事は露見し、南條廣継と妻は季廣によって討たれてしまいます。

これで南條家は歴史上から抹殺されるかと思いきや、廣継の嫡男宗継がこれまで以上に忠誠を誓い、それが蠣崎家に届き、南條家の家督を相続(4代目)できることになり、江戸幕府300年間松前家の一家臣として明治維新まで仕えました。 

その南條家の子孫は、たしか現在札幌に住んでおられるはずです。 というのも以前、松前藩の参勤交代の役目を負った南條家のひとりが、克明に参勤交代の行程日記を付けていて、その古文書が札幌で発見されたことを、今回の講座を企画してくれた知内郷土資料館の高橋さんが新聞発表されていたことを想いだしたからです。 

歴史を学ぶ醍醐味を今回も味わうことができたような気がして感謝です ネ