2011年12月29日木曜日

坂の上の雲の主人公

「向日葵の会」花田冨
三年間に亘るNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が完結した。 文明史家でもある作家の司馬遼太郎、まことに小さな島国の、さらに一つの島である四国の一城下町の松山に生を受けた三人の若者を主人公にして、文明開化をし西欧諸国に追いつき肩を並べようとやっきになって突き進んでいる明治という時代の前半を、坂を上るとその向こうに一筋の希望の「雲」が見えるという情景に見立てて書きあげた壮大なスケールの歴史ドラマです。

秋山好古・真之兄弟と、幼馴染の正岡子規がその三人です。 正岡は学校の教科書にも載っていて三人の中ではよく知られた人物で、ヨーロッパの自然主義の影響を受けて「写生・写実」による現実密着型の生活のあり様を詠むという新しい詩情を開拓した近代俳句の創設に尽力し、明治30年には俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、多くの弟子を輩出している。 

秋山兄弟のことは、正直言って司馬遼太郎の本を読むまでよく分からなかった。 日清・日露戦争で大活躍した二人ですから、戦前(第二次)ならば国民学校の教科書に詳しく載っている人物で子どもたちに大いに人気があったことでしょう。 特に真之は、日露戦争での日本海海戦の作戦を一手に引き受けて実行した作戦参謀で、日本海軍を勝利に導いた功績は大なるものがあっただけに有名だったと思う。  「本日天気晴朗なれ共、波高し」という、当日の海戦開始にあたっての名言は、真之の言葉だったと言います。 

海戦は、ロシア・バルチック艦隊の38隻のうち目的地のウラジオストックにたどり着いたのは、たったの4隻で完全なる日本海軍の勝利であった。 「丁字戦法」という作戦を取らなければ、もっと日本の打撃は大きかったろうし、ロシアが海戦を勝利していたかも知れない。 尚、好古は大陸にいて、騎馬隊を組織し、陸軍としてロシア戦(奉天会戦など)に大活躍した。

その勇猛果敢に明治という時代で大きく羽ばたいた三人の死因は、いずれも感染症であった。 子規は、21~22歳の頃に喀血して「結核」に罹った。 34歳という若さで「脊椎カリエス」で亡くなった。
真之は「盲腸炎」が進行し、「腹膜炎」で亡くなり(49歳)、兄好古は「壊疽」で足を切断するも、時期が遅すぎて「敗血症」となって亡くなった(71歳)そうだ。 いずれも抗生物質の使用できる現代であれば、はじめの病気で治っていた病であっただろうに・・・。

まだペニシリンが発見される以前の明治という時代の西洋医学の黎明期での出来事でした ヨ