天神坂から見た「松前夫婦桜」の夜桜 |
春の訪れの遅い北国にも、やっと桜の便りが聞かれる頃になりました。
となり街の松前では、先月29日に「松前さくらまつり」のオープンをしました。 松前の桜は、その種類の多さでは随一と言われています。 冬桜や早咲き桜に始まり、遅咲きまでと言うと、約1カ月間さくらの花見ができます。 元松前町の小学校教師だった浅利政俊さんが、桜の保存や育種に携わって、一躍松前の「桜」が有名になりました。
その浅利さんが、大阪の造幣局の「桜の通り抜け」に関係していたことは、今朝の道新日曜版の「旅」の紙面で知りました。
大阪造幣局は明治4年(1871)に明治政府が貨幣制度の立て直しを図るため、水利が良い天満の大川に設立されました。 そのあたりは、江戸時代から桜の名所であったらしく、局員だけの花見ではもったいないということで、一般の人々にも花見を開放したのが「通り抜け」の始まりだそうですから、もう約130年も続いている花見行事なんです。
ところが、大気汚染や戦災などに会い、桜木が枯れる事態となり、特に1960年代になると深刻な大気汚染に悩まされるようになりました。
その話を聞いた浅利先生が、「接ぎ木で空気のいい北海道に移植して貴重な品種を守れないか」と考え、道産子で初めて五輪金メダルをとった陸上三段跳びの南部忠平さんに相談したそうです。
南部さんは、即座に快諾してくれ、門外不出だった19品種が大阪から松前に贈られ、返礼として浅利さんは自ら開発した14品種を贈呈し、通り抜けに北の桜が定着したんだそうです。
「通り抜け」は、わずか600メートル足らずですが、128種もの桜が個性を競っているそうです。
桜守の浅利さんは現在80歳の高齢で、七飯町に住んでおられます。 松前の「桜」は今年も多くの観光客の目を楽しませてくれることでしょう ネ