2013年1月16日水曜日

「その時は、ごめんね」

今月15日の道新朝刊の「いずみ」欄に載った函館市の米谷喜美子(63歳)さんの文章の題名です。

米谷さん姉妹はお母さんの在宅介護を始めて約1年になる。 お母さんは過去と現在を自由に行き来しているというから、おそらく認知症を患っていると思うが、とても上手い表現を使うものだと感心する。 そのお母さんは口からの食事が取れないので「胃瘻(いろう)」で一日三回の栄養を摂っている。 

人は口からの食事をとることで食べる喜びを味わうわけで、腹壁に造設した穴に取り付けたチューブを介して胃の中に流動食を流し込むのは、単に生かし続けているだけではないのかと姉妹は悩んでいるという投稿です。

ところが、心が揺れている米谷さんに、ある友人から なんにも分からないように見えても、お母さんは、お母さんの世界で泣いたり、怒ったり、笑ったりしながら、いまを生きているんだよ。 そしてね、いつか終わる日が来るんだよ。 介護はね、後に残される人たちのためなんだよ。 介護しているんではなく、させてもらっている、そう思いなさいよ。・・・穏やかだったお父さんと、今のお母さんを比べてはいけないよ と諭されたと書いている。

そのお母さんも12年前に脳腫瘍を患ったお父さんの在宅介護で大変な思いをした。 その時介護に疲れ切った米谷さんに介護させてくれてありがとう。そう思いなさい」と自らもリュウマチを患って疲れ切り共倒れ寸前だったお母さんが彼女に話しをしてくれたことを思い出した・・・そうだ。

それが”介護の気持ちだ”と米谷さんは気づかされたというお話です。 ものは考え様だと言いますが、はたして誰でもその場面・状況に直面したら同じように考えられるだろうか? とっても疑問に思うのだが・・・、少なくとも介護(事業)に携わる者は心しておかなければならない心持ちだと思います ネ