ヘリコバクター・ピロリ菌 |
ところが、オーストラリアのロビン・ウォーレンという病理医とバリー・マーシャルという消化器内科医によって胃の中に“ピロリ菌”という細菌が存在し、胃炎発生の原因菌であることがつきとめられ、1983年と84年に相次いで 『ランセット』という英国の有名な雑誌に彼らの論文が掲載されることになりました。
それから約20年後の2005年に二人はノーベル生理学・医学賞を受賞しました。 受賞理由は、「胃粘膜よりピロリ菌を発見、培養することに成功し、ピロリ菌感染が胃炎や胃・十二指腸潰瘍の発生に深く関与していることを突き止めたこと」ということでした。
初めにピロリ菌を発見したのは、ウォーレンで、オーストラリアの王立パース病院に病理医として勤務して12年目のことでした。 1979年の6月ですから冬の初め頃のことです。 その細菌は、らせん構造をしていたので、スピロヘータ用の染色法を応用すると見事に良く染まって見え、電子顕微鏡の撮影にも成功し、下痢などをおこすキャンピロバクターという菌に類似していたため、当初キャンピロバクター類似細菌(CLO)と呼ばれていました。
ある細菌が特定の病気に関与していることを証明するには、「コッホの四原則」を満足させなければなりません。 一番目は、その菌が常に病変の中に存在していること、二番目は、その菌が純粋培養が可能であること、3番目は、培養された菌によって接種された動物に同じ疾患が再現できること、4番目は、同様の菌が発病した動物から分離されることというものです。
世紀の大発見にはよく偶然とかラッキーなどという何がしかの“因縁”があります。 ノーベル賞受賞者のインタビューを聴いていると「あ~あ、やっぱりね~」と思わせる発言があります。 ピロリ菌の場合も、「コッホ四原則」の2番目にラッキーが関与してました。
1982年4月、新しくウォーレンの仲間に加入したマーシャルはキャピロバクターを分離する方法で2日間の培養期間で培養を行っていたが、ちょうど復活祭休暇になってしまい、二日間の培養では陰性だった培養プレートを破棄しなけらばならなかったが、捨てるのを忘れそのままにしてしまった。 休暇明けの火曜日の朝、スタッフの一人がプレートを捨てようと中を見たところ、細菌のコロニー(集落)が形成されていてびっくり。 培養がゆっくりで、5日間もかかっていたことになります。 大騒ぎになったことは想像に難くありません。 まさに復活祭が幸運を招いてくれたようなものです。 それらの事が彼らの初めての論文として『ランセット』誌に掲載されたのは1983年のことでした。
次に、コッホの第3原則を満足させなければならなかったが、ここでも問題が発生しました。 動物に小ブタを候補として細菌感染させようと試みたが結局失敗に終わって、マーシャル本人がピロリ菌を飲むことを決心しました。 それまでにピロリ菌に効く抗生物質を研究し、知ってはいたものの、家族からの猛反対があり、王立パース病院の倫理委員会を通ることも考えられなかったから、自分の責任において研究を決断した。
その結果、胃炎を発病したが、除菌して治り、さらに彼の胃からの菌が再び培養に成功し、一遍にコッホの第3と第4の原則も証明されたことになった。 胃・十二指腸潰瘍に関わりあるピロリ菌と言う内容の第2の論文が『ランセット』誌に発表されたのは1984年6月のことでした。
当時わたしは芦別市立病院の内科医として勤務しており、内科医仲間とのカンファレンスでその論文を紹介した記憶があります。 が、その時はまだ論文の価値を十二分に理解し、プレゼンテーションしていなかったんだと思います。
それにしても、マーシャルの実行力には脱帽です。 天然痘の予防の道を拓いたジェンナーでさえ、初めての牛痘接種を我が子にしたと伝えられていますが、本当は他所の子だったとか・・・。
なお、この細菌はその後キャンピロバクターとは異なった細菌であることが判り、ヘリコバクター・ピロリと命名されました。 ピロリという意味は、英語のピロルスから由来しています。 つまり、胃の出口を幽門(ピロルス)と言い、はじめにこの菌が証明された場所が幽門だったからです。 (次回はピロリ菌の特徴について)
(「コッホ四原則」のコッホとは、結核菌などを発見し、明治時代の日本の細菌学者にも多大な影響を与え、ノーベル賞に輝いたドイツの細菌学者ロベルト・コッホのことです)