10/27(火)
岐阜で生まれた円空さんが、江戸時代のはじまりの頃の寛文6~7年(1666~1667)に、蝦夷地に渡り、小坐像(観音菩薩像や阿弥陀如来像)を作仏して周っていました。 そんな円空さんに魅力を感じる人は少なくありません。 わたしもそのひとりですが、シンガーソングライターの河島英五もその魅力にひかれ、カワサキZ400FXで東北・北海道の「バイクツアー」を行ったそうです(1981年)。
その足跡を、作像された像の様式(像の完成度)から推理できるか否かを、検討してみました。
円空の像を、①胸のへこみの深さ ②台座(臼座、岩座)の違い ③背銘の梵字の有無、によって比較検討してみると、
Ⅰ・日本海側 Ⅱ・津軽海峡、内浦湾側
の二通りに区別されると考えられます。 その移行過程が、ちょうど熊石(八雲町)の黒岩洞窟で彫った二体の観音菩薩ではなかったのかと推察している。 松前を発って太田権現の霊場を目指していた円空さんは、黒岩までは民家の一角を借りて彫刻していたと思われる。 はじめて黒岩洞窟で作仏し、その後は、いよいよ太田権現の険しい山頂の洞窟で多くの仏像を彫ることになったと思われます。
今、そこで彫られた多くの仏像は、火の不始末から燃えてしまって観ることができません。
もし、残っているなら内浦湾へ続く何らかの手がかりとなる仏像があったと思います。 内浦湾へでた円空さんは、次に有珠山の霊場へと向かい、小幌の岩屋洞窟を経て、津軽海峡へと南下して松前へ戻ったのではないだろうか。
贔屓目といわれるだろうが、わが町の『円空仏 来迎観世音菩薩』は、旅の終わりにあたり完成度の高いものとなっており、次に訪れたといわれる東北地方の仏像と相似しています。
津軽半島の三厩は、福島町とともに『青函トンネル』の基地の町として有名で、トンネルで繋がっています。 その三厩の義経寺にも『円空仏 来迎観世音菩薩』があります。 ただ、その寺の円空仏は、33年に一度開錠されるそうです。
わが町の円空仏は、レプリカですが、トンネル記念館で拝顔できます ヨ