端午の節句で想い出す食べものとして、柏餅か粽(ちまき)かで日本は大きく二分されるそうです。 関東は柏餅で、粽は関西地方出身者が多いらしいですね。
柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、これを「子供が産まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」=「子孫繁栄」という意味を持たせて用いているそうです。
柏餅というお菓子が日本の歴史に登場したのは、徳川九代将軍の家重~十代将軍の家治の頃だと言われています。 その理由は俳句の季語を記した書物「拝諧初学抄/齋藤徳元」(1641年)には五月の季語として「柏餅」が記載されていないのに対して、1661~1673年頃に成立した「酒餅論」には「柏餅」が季語として紹介されているからだと考えられています。
柏餅が日本のオリジナルな祝い餅である一方、粽は中国の行事とセットで日本へ伝わってきた習慣だと言います。 餅団子を茅(ちがや)の葉で包んだものを粽と言いますが、粽には「難を避ける」という縁起的な意味もあるのだそうです。 これは中国の故事からきているので、紹介します。
『 昔、中国が戦国時代だった頃に楚国という国があって、屈原(くつげん)という人がいました。 賢人だった屈原は、楚国の王の乱行ぶりに我慢ができず、ある日、王を諌めようと忠告しまし た。 しかし、それは王の逆鱗にふれてしまい、屈原は江南の地へ流刑されてしまいます。 そし て屈原は王を慕いながら、泪羅(ベキラ)川へ身を投げてしまったのです。
里の人々は屈原を哀れんで、毎年、屈原の命日の五月五日に、竹づつに米を入れたものを川 の水に流し、屈原の霊を弔っていたのです。
ところが漢の時代に、里の者が川のほとりで屈原の幽霊に出会います。
幽霊曰く、「里の者が毎年供物を捧げてくれるのは有り難いが、残念なことに、私の手許に届く 前に蛟龍(こうりゅう)という悪龍に盗まれてしまいます。 だから、今度からは蛟龍が苦手にして いる楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい」と言ったと言います。
里の者は、「あいわかった」と承知し、 以来、楝樹の葉で米を包み五色の糸で縛ったものを川 へ流すことにしたので、無事に屈原の元へ供物が届くようになったそうで、 めでたし、めでたし 』
という内容です。
北海道の場合、五月の節句は「ベこ餅」が有名です。 東北の一部でも「べこ餅」を喜んで食べるそうです。 なぜ「べこ餅」と言うかは、いろいろな説があるらしいんです。
まずどれが「べこ餅」かと言うと、『白砂糖と黒砂糖の二種類の種を作りダンダラに混じて小判型に作り蒸したもので、白と褐色の縞模様にしたもの』とあります。〈『松前福山の行事と餅類』(昭和21年)より〉
したがって、白黒の色合いから考えられる「ホルスタイン説」、まだら模様の「べっ甲説」、牛がふせた姿の「和牛説」と、いったいどれが本当なのか、またはもっと別の由来があるのかも分かりません。
さらに、下北地方の大畑や日本海側の鰺ヶ沢や青森の浅虫などでは、「くじらもち」と呼ばれる「べこ餅」もあります。 同じものと考えていいのか迷うばかりです。
一方、道南の江差町、上ノ国町、松前町、八雲町などでは、木型に入れて作る北海道式のべこもちを、「かたこもち」または「かたもち」とよぶ地域があります。 木型には、長方形の材に1個だけのものと、羽子板のように持ち手が着いていて、1枚に2個、3個とくり抜いてあるものがあります。 また、形も木の葉だけでなく、たけのこ、扇、菊、ウサギ、カメなどさまざまです。 もともと家庭で作るお菓子なので、道南などでは明治から各々の家に伝わっている型や、古い菓子店では代々使い継がれている型のものが多いようです。
いずれにしても、牛でも舌でもなく、お米の粉だから、米粉(べいこ)もちとなって、それがいつしか「べこ餅」に変わったのではないでしょうか。 確かにべこ餅の材料はかたちの違う下北でも北海道でもすべて米の粉なんです。
はるか遠く海を渡って伝えられた「くじらもち」と「かたこもち」は、その両方の流れが北海道で出会い、溶けあって「北海道式ベこ餅」となったのではないでしょうか。
べこ餅、くじらもち、かたこもちは、どれも故郷で愛され続けるお菓子です。
それらが長い年月を経て互いに重なり合い、深く影響し合っているのでしょう。 |
次に、今日の本題の「あくまき」については、南の鹿児島地方で端午の節句の時期に食べられる「餅」だそうですが、日を改めて記載します。