「夷酋列像」イトコイ厚岸の長老 (ツキノエの息子。蜂起したセツハヤフは弟) |
宇江佐さんは、函館市出身で、私と同じ高校の一年先輩の女流作家です。 道新の夕刊に不定期のようだが投稿記事(ウェザーリポート)を書いている。 作家の山本一力さんらと親交のあることなど、身の周りに起きたその時々のことを書き寄せており、最近では自分の小説「雷桜」が映画になるまでのエピソードや試写会の模様などを載せていた。 映画「雷桜」は今TVでも盛んに宣伝している話題作だ。
さて、表題の本「桜花を見た」は、江戸時代の実在の人物をモデルに書いた五つの中編を載せている。 その中でも『夷酋列像』と題した作品を是非読みたいと、数年前から切望していて、やっとその希がかなった。
この作品の主人公は、松前藩家老の蠣崎波響(かきざきはきょう)という人物で、キーとなる登場人物は、松前道広(松前藩9代藩主)と大原左金吾(丸山応挙一門の絵師で、雅号は呑響、墨斎)だ。
歴史的出来事のキーワードは「メナシ・クナシリの戦い(寛政元年1789)」、「松前藩の陸奥の国梁川への移封(文化4年1807)」、「松前藩の蝦夷地復領(文政4年1821)」と、私は考えて読了したが、波響の妻となる「かな江」の存在もこの物語に大きな厚みを持たせて書かれている。
波響(1763~1826)の母は、松前藩8代藩主資広の側室の自正院文子(和歌の雅号は松前文子)で、彼女の実家は、江戸の長倉屋という松前藩御用達の呉服屋であった。 波響は松前藩9代藩主道広の腹ちがいの弟として子どもの頃から画才を認められ、江戸で絵(長崎画)の勉強をし、その後丸山応挙派の文人・画人と交流を持ち、丸山派の画風として有名になる数多くの作品を世に送り出した。
波響(広年)が藩政に携わっていた頃、歴史的な出来事として、和人たちの横暴さに耐えかねて寛政元年(1789)に蝦夷人が蜂起した「メナシ・クナシリの戦い」(寛政蝦夷騒動)が起ったが、その鎮圧のために同胞の蝦夷の長老(乙名)達が松前藩に味方し、反乱した蝦夷の降伏に力をかしてくれた。 鎮圧成立を祝って、協力してくれた蝦夷の長老ら80余名を松前城下に招いた時、彼らの身なりが貧しかったので、藩庫に保管されていた蝦夷錦(えぞにしき)の衣装を着せて藩主道広に謁見させた。
その時の蝦夷の長老ら12人の様子を絵に画いたのが「夷酋列像」です。 波響が一年に及ぶ月日をかけて完成させた作品は、道広はもとより多くの人々に驚きをもって受け入れられた。 つまり絶賛された「画」は、京にまで紹介され 119代光格天皇の天覧も叶い、国中に波響の名声が広まったというわけだ。
ただこの時、宇江佐さんは、まだ波響の妻となっていない許婚の「かな江」に、「同じ仲間なら、手柄のあった蝦夷はどうして蜂起した蝦夷の命乞いをしなかったのだろう」と言わせている。
勿論そのことは波響を苛立たせるだけだが、12人の列像の中で唯一の女性であるツキノエの妻チキリアシカイには「わたしは一族の長の妻であり・・・いざという時は、長に代って敵と闘わなければならない・・・その敵が息子であっても娘であっても事情は同じです。この度のことも息子だけを助けるという訳には行きませんでした」と、語らせている。
蜂起の首謀者マメキリと行動を共にしたチキリアシカイの息子セツハヤフは人質であり、生にえであり、反乱の鎮圧は彼女の息子の命を以てあがなわれた収束でもあり、翡翠の耳飾りと首飾りをさせ、こげ茶の蝦夷錦(十徳)を着せられた彼女の表情はこの世のものとも思えぬほど堅い。
ここまでは波響の人生の中でトントン拍子な「栄光」の時代であったと言えるだろうか。
しかし、波響の人生で、「列像」を描いていた頃から、蝦夷地へ頻繁に南下してくるロシア国の脅威に松前藩が脅かされることになり、そのために藩主をすでに退いていた道広であったが、10代藩主章広の外交相談役として、以前江戸藩邸で風山流の兵学を講義されたことがある大原左金吾(呑響)を京都から招聘し、その外交政策にあたろうとした。
実際、ロシアやイギリス船が頻繁に蝦夷地の近海に近づいてくるため、その対応に大変苦慮していたのだった。
すでに波響の人生での「苦難」の時代が始まっていたと言える。
道広に乞われて松前に来たはずの大原呑響(どんきょう)であったが、ロシアの南下政策に対する道広の施策の無さや傲慢さに、またイギリス船の蝦夷地虻田入港をめぐって松前藩の政策に不満を持ち、ついに逃げるように松前を去ってしまった。
彼は江戸へ向かう途中の水戸で、彰考館総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)に会い、松前藩の現状を訴えた。 翠軒は「墨斎奇談」を著して、幕府に対し松前藩(道広)は外夷内通の意志ありと述べたことから、一連の呑響の行動は松前藩の上知(あげち)の原因をつくったと言われるようになった。
文化4年3月、江戸城から使者が松前に到着し、松前藩の九千石降格と 「陸奥の国伊達郡梁川への移封」が伝えられた。 藩の財政から考えて、約400名の藩士のうち、士分66名・医師4名・足軽70名の士籍を削って梁川に移封することになった。 寄合席から執政に昇格した波響は、いっきに藩の重責を担うこととなってしまったのだ。
その後の波響の半生は、松前藩の復領が叶えられることが自らの使命と考え、そのための資金造りに精をだすことになる。 「夷酋列像」の作者としての彼の名声は、国中の誰もが知っているから、彼の描く「絵画」は、おそらく高額で取引されたことだろう。 波響の絵の代金は、復領を頼む為の賄賂(わいろ)として、将軍家斉の父である一橋治済と側用人の水野出羽守忠成(みずのでわのかみただあきら)の二人に遣われたそうだ。
とうとうそうした波響の十年以上に及ぶ努力の甲斐があって、文政4年12月7日「松前藩の復領」が幕府から発表された。 側用人から老中の座に就いた忠成が幕閣の重職らの了解を得ないで、独断で決めてしまった措置です。
復領後の波響は、家督を息子の広伴に譲り、文字通り絵三昧の日々を送った。 松前画壇なるものを形成し、後世に伝わる優れた絵師を輩出させたが、波響は復領から5年後の文政9年6月に63歳で没した。
天覧が叶うほどの画才を持った絵師が、売り絵のための「絵」を描いて、自ら執政をしている藩の窮地を救ったという「芸は身を助ける」式の簡単な話ではすまされません。
波響に、妻かな江は無学な女で絵などわかりもしないと言わせる一方で、波響の絵の一番の贔屓者は母上であると息子広伴に言わせ、「かな江が妻でなければ今日の広年はない」と感謝する気持ちをさらりと波響に語らせた宇江佐さんは、この本の最後で「松前応挙と呼ばれ、『夷酋列像』で人々の耳目を集めた波響こと蠣崎将監広年は、その画業もさることながら、一藩の怒涛のごとき運命を自らの才覚で乗り切った能吏でもあった」と結んでいる。
現代にも通ずる話のようでもあり、歴史は繰り返すとはよくいったものです ネ