講義する桑原教授 |
もう数年前になりますが、松前町の歴史の同好の方々や福島町史研究会の顧問をしておられる永田富智先生と一緒に「大館・小館からゴローニンが幽閉されたバッコ沢一帯」を探訪したことがあった。 それ以来のことなので、今回の講演には是非出席したいと思っていました。 今日会場に着くと、もうすでに多くの町民が集まっていて、予定したイスが足りなくなり追加する程でした。
桑原先生は松前町史の一部を担当されており、近現代史・北方史研究を得意とされている経済学者でもあると紹介され、大学の講義と同じようにレジュメに沿って少し早口な語り口調で話が進みました。
桑原教授資料 |
1700年代半ば頃から、南千島・蝦夷島周辺に「唐船」(ロシア船のこと)が接近するようになった。
1778(安永7年)ロシアのナタリア号が根室近辺に来、翌年松前藩上乗役新井田大八が厚岸で応接するという外交事案があった。 この一件は鎖国をしている日本国にとって外交上重大なことであるのに、松前藩は幕府へ報告していなかった。
その後も、ロシア船がたびたび蝦夷島へ近づいてくることがあったようで、1783(天明3年)工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著して北方の危機を訴えるような状況になり、関心が松前藩の蝦夷地統治に集まってくるようになっていた。
そうした中、松平定信が老中田沼意次の後、老中筆頭となり、「寛政の改革」を始めたのは天明7年(1787)のことです。
その2年後の1789(寛政元年)にクナシリ・メナシのアイヌの蜂起が起こり(寛政蝦夷の乱)、松前藩はその対応に困ったが、幸いにも穏健なアイヌ長老の理解を得て早期解決し、その副産物として家老蠣崎波響の「夷酋列像」が描かれることになりました。 災い転じて・・・でしょうか。
しかし、1792(寛政4年)9月、ロシア遣日使節アダム=ラクスマンがシベリア総督の修好を求める書簡を持参し、日本人漂流民・大黒屋光太夫を同伴して根室に来航するということがおき、いよいよ外交の転換期となる事態をむかえるのでした。 続く ヨ