2012年8月14日火曜日

新成人のピロリ菌検査

「なご美会」熊谷正春
38名の新成人おめでとう!

予告どうり「二十歳のピロリ菌感染検査」北大JGSGの協力を得て福島町では初めて実施した。  20名の成人が検査をしてくれて2名の感染陽性者が判明した。

二人の成人には今後の除菌と定期的なフォローなどについて充分説明し同意を得て行ないます。 将来の胃がん発生を阻止できる大きな大切な試みでありますから。

今後の若年者への「検査」の拡大への良いステップになればいいです ネ

2012年8月13日月曜日

福島やるべいかまつり

松前「向日葵の会」田辺さん
今日は朝からの雨のため、「やるべいかまつり」は残念ながら一日順延となってしまった。 当然、まつりのクライマックスを飾る花火大会も明日になります。 天気予報は良い天気です。 期待しましょう。 

ところで、今夜の行事で大事なことがありました。 毎年恒例で行われている「成人祭」です。 福島町始め多くの道内の地域では、お盆の時期なら就職した新成人達も帰省するので、夏の時期に「成人式」を行なうところが多くなっています。 福島町の場合は、いつの頃からでしょうか?

今年の新成人は47名です。 その内、30名が午後6時から福島大神宮に集まって神主のお祓いを受け、成人となった誓いを述べ、御神酒をいただきました。  成人としての自覚をいっそう強くしたものと思います。

それに先立つ新しい催しとして、道内では初めて「新成人の胃検診」としてピロリ菌感染検福島町医歯会北海道大学の協力を得て行ないました。 今日は検査の説明とアンケートだけでしたが、反応はまずまずでした。 若年からのピロリ菌除菌が将来の胃がんの予防に繋がるということから「胃がん撲滅キャンペーン」の一環として行なうものです。 

明日の実施が待ち遠しいです ネ


2012年7月26日木曜日

熱波

「み」のサインはオガクリ院長です
今日は、今年の夏一番の暑さで、ここ道南でも30度を超える真夏日でした。 

それでも今日の仕事場(オガクリ)では、エアコンを運転しませんでした。 昨年までなら、とっくに使っていた家電製品を動かさないで、職員は勿論、そして患者さんたちにも協力をして頂いてます。 節電のため、計画停電が実施されないように願って・・・です。 

ちょうどオガクリは国道228号線に沿って建っているため、計画停電のエリア内に位置しています。 近くに消防署のポンプ車の倉庫があったり、町の吉岡分室があるのだが、バッチリ停電計画内に入っている。


ただ、身体の具合の思わしくない方々には、他にもっといい方法があるか明日以降考えてみましょう。


それにしても暑い日でありました ネ

2012年7月20日金曜日

函館港の花火

「なご美会」池田さん
先日の15日は「海の日」でした。 その制定記念として函館新聞社が函館港の緑の島から花火を打ち上げる花火大会を行ないました。

当日は、良い天気にも恵まれ、風もあまりなく絶好の花火の日と思われました。 夜の7時45分から始まった催しは、たくさんの人出で賑わい、仕掛け花火や大輪の花火が揚がるたびに子どもから大人まで黄色い歓声が上がっていました。 

ビデオを持ちだして、フィナーレの場面を映像化し、ユーチューブに投稿してみました。 アクセスしてみてください。

「函館港 花火大会 ~海の日制定記念~ Fireworks at Hakodate 2012」


花火を観るには浴衣姿が本当によく似合います ネ

2012年7月14日土曜日

夷酋列像がやってくる

2度目の里帰りの時のポスター
「チロップ館」に展示中
今月の23日に、フランス・ブサンソン美術館所蔵の『夷酋列像』がはるばる海を越えて松前に里帰りします。 


江戸後期の松前藩の家老であった蠣崎波響が、「メナシ・クナシリの戦い」で反乱の終息に貢献した蝦夷の長らをねぎらう為に松前に招いた時に描いた12枚の絵が素晴らしい出来栄えだったため、波響の絵師としての名声が一気に高まったと言われており、その絵の内11枚がブサンソンで発見され、今回が3度目の来道です。

そこで以前、宇江佐真理さんの『桜花を見た』という小説について書いたわたしの小文があったので載せてみます。




宇江佐真理『桜花を見た』を読んで

             福島町史研究会   小笠原実

宇江佐真理さんの著「桜花を見た」を知人から借りて読んだ。 本の題名は「さくらをみた」となっている。 初版が2004年だから、本を手にして読むまでに随分と年数がかかったものだ。

宇江佐さんは、函館市出身で、私と同じ高校の一年先輩の女流作家です。 道新の夕刊に、不定期のようだが投稿記事(ウェザーリポート)を書いている。 作家の山本一力さんらと親交のあることなど、身の回りに起きたその時々の事柄を書き寄せており、最近では自分の小説「雷桜」が映画になるまでのエピソードや試写会の模様などを載せていた。 映画「雷桜」は今TVでも盛んに宣伝している話題作だ。

さて、表題の本『桜花を見た』は、江戸時代の実在の人物をモデルに書いた五つの中編を載せている。 その中でも『夷酋列像』と題した作品を是非読みたいと、数年前から切望していて、やっとその希がかなった。 

この作品の主人公は、松前藩家老の蠣崎波響(かきざきはきょう)という人物で、キーとなる登場人物は、松前道広(松前藩9代藩主)と大原左金吾(丸山応挙一門の絵師で、雅号は呑響、墨斎)だ。 歴史的出来事のキーワードは、「メナシ・クナシリの戦い(寛政元年1789)」、「松前藩の陸奥の国梁川 への移封 (文化4年1807)」、「松前藩の蝦夷地復領(文政4年1821)」と、私は考えて読了したが、波響の妻となる「かな江」の存在もこの物語に大きな厚みを持たせる結果となっていると思われる。

波響(1763~1826)の母は、松前藩8代藩主資広の側室の自正院文子(和歌の雅号は松前文子)で、彼女の実家は、江戸の長倉屋という松前藩御用達の呉服屋であった。 波響は松前藩9代藩主道広の腹ちがいの弟として子どもの頃から画才を認められ、江戸で絵(長崎画)の勉強をし、その後丸山応挙派の文人・画人と交流を持ち、丸山派の画風として有名になる数多くの作品を世に送り出した。 

波響(広年)が藩政に携わっていた頃、歴史的な出来事として、和人たちの横暴さに耐えかねて寛政元年(1789)に蝦夷人が蜂起した「メナシ・クナシリの戦い」(寛政蝦夷騒動)が起ったが、その鎮圧のために同胞の蝦夷の長老(乙名)達が松前藩に味方し、反乱した蝦夷の降伏に力をかしてくれた。 鎮圧成立を祝って、協力してくれた蝦夷の長老ら80余名を松前城下に招いた時、彼らの身なりが貧しかったので、藩庫に保管されていた蝦夷錦(えぞにしき)の衣装を着せて藩主道広に謁見させた。 

その時の蝦夷の長老ら12人の様子を絵に画いたのが「夷酋列像」です。 波響が一年に及ぶ月日をかけて完成させた作品は、道広はもとより多くの人々に驚きをもって受け入れられた。 つまり絶賛された「画」は、京にまで紹介され 119代光格天皇の天覧も叶い、国中に波響の名声が広まったというわけだ。 

ただこの時、宇江佐さんは、まだ波響の妻となっていない許婚の「かな江」に、「同じ仲間なら、手柄のあった蝦夷はどうして蜂起した蝦夷の命乞いをしなかったのだろう」と言わせている。 勿論そのことは波響を苛立たせるだけだが、12人の列像の中で唯一の女性であるツキノエの妻チキリアシカイには「わたしは一族の長の妻であり・・・いざという時は、長に代って敵と闘わなければならない・・・その敵が息子であっても娘であっても事情は同じです。 この度のことも息子だけを助けるという訳には行きませんでした」と、語らせている。 
チキリアシカイの息子セツハヤフは人質であり、生贄であり、息子の命を以て贖われた収束でもあり、翡翠の耳飾りと首飾りをさせ、こげ茶の蝦夷錦を着せた彼女の表情はこの世のものとも思えぬほど堅い。 もし粉本(下絵)があるならチキリアシカイのものは是非見てみたいものだ。
ここまでが波響の人生のトントン拍子な「楽」の時代であったと言えるのではないだろうか。

波響の人生で「列像」を描いていた頃から、松前藩は蝦夷地へ頻繁に南下してくるロシア国の脅威に脅かされることとなり、そのために藩主をすでに退いていた道広であったが、10代藩主章広の外交相談役として、以前江戸藩邸で風山流の兵学を講義されたことのある大原左金吾(呑響)を京都から招聘し、その外交対策にあたらせようとした。 
実際、ロシアやイギリス船が頻繁に蝦夷地の近海に近づいてくるため、その対応に大変苦慮し始めていたのだった。 すでに波響の人生での「苦難」の時代が始まっていたと言える。

道広に乞われて松前に来たはずの大原呑響(どんきょう)であったが、ロシアの南下政策に対する道広の施策の無さや傲慢さに、またイギリス船の蝦夷地虻田入港をめぐって松前藩の政策に不満を持ち、ついに逃げるように松前を去ってしまった。 彼は江戸へ向かう途中の水戸で、彰考館総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)に会い、松前藩の現状を訴えた。  
翠軒は「墨斎奇談」を著して、幕府に対し松前藩(道広)は外夷内通の意志ありと述べたことから、一連の呑響の行動は松前藩の上知(あげち)の原因をつくったと言われるようになった。

文化4年3月、江戸城から使者が松前に到着し、松前藩の九千石降格と 「陸奥の国伊達郡梁川への移封」が伝えられた。 藩の財政から考えて、約400名の藩士のうち、士分66名・医師4名・足軽70名の士籍を削って梁川に移封することになった。 寄合席から執政に昇格した波響は、いっきに藩の重責を担うこととなってしまったのだ。

その後の波響の半生は、松前藩の復領が叶えられることが自らの使命と考え、そのための資金造りに精をだすことになる。 「夷酋列像」の作者としての彼の名声は、国中の誰もが知っているから、彼の描く「絵画」は、おそらく高額で取引されたことだろう。 波響の絵の代金は、復領を頼む為の賄賂(わいろ)として、将軍家斉の父である一橋治済と側用人の水野出羽守忠成(みずのでわのかみただあきら)の二人に遣われたそうだ。

とうとうそうした波響の十年以上に及ぶ努力の甲斐があって、文政4年12月7日「松前藩の復領」が幕府から発表された。 側用人から老中の座に就いた忠成が幕閣の重職らの了解を得ないで、独断で決めてしまった措置です。 
復領後の波響は、家督を息子の広伴に譲り、文字通り絵三昧の日々を送った。 松前画壇なるものを形成し、後世に伝わる優れた絵師を輩出させたが、波響は復領から5年後の文政9年6月に63歳で没した。

天覧が叶うほどの画才を持った絵師が、売り絵のための「絵」を描いて、自ら執政をしている藩の窮地を救ったという「芸は身を助ける」式の簡単な話ではすまされません。

波響に、妻かな江は無学な女で絵などわかりもしないと言わせる一方で、波響の絵の一番の贔屓者は母上であると息子広伴に言わせ、「かな江が妻でなければ今日の広年はない」と感謝する気持ちをさらりと波響に語らせた宇江佐さんは、この本の最後で「松前応挙と呼ばれ、『夷酋列像』で人々の耳目を集めた波響こと蠣崎将監広年は、その画業もさることながら、一藩の怒涛のごとき運命を自らの才覚で乗り切った能吏でもあった」と結んでいる。 




以上が、『桜花を見た』を読んで感じたことでした。 宇江佐さんの道新夕刊のコラムは終了してしまいました。 エッセイにも読んで楽しい内容がいっぱい詰まっています ヨ